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4月, 2018の投稿を表示しています

丹田が動かない時

丹田が動くときというのは、自分が本来の自分である時です。 自分のエネルギー正しく発揮されている状態は、丹田が動いています。 丹田が十分動いている時は、個性が正しく発揮されている状態であり、のりうつりを退けることができます。
だからのりうつりの影響が出てくるときは、丹田の動きがにぶくなってきているときです。 のりうつりがあっても、「自分を変えればとれる」と思っている時は、丹田がまだ動いています。 しかし、「のりうつりが取れれば自分は変われる」に変わった瞬間は、丹田が動きを止めています。
自分を変える」には、自分の主体的な意思があります。 しかし、「のりうつりが取れれば変われる」というのは、主体性が損なわれ依存に傾いています。同時にのりうつりよりも自分が弱い立場になっています。 つまり、自分の主体性を損ない自己信頼を損なっています。 これこそがのりうつりの影響をもろに受けている証拠です。 要するに丹田の動きが止まり、別のエネルギーに支配されている状態になっているのです。
のりうつり対策では、まず、自分を変えていくことが重要です。 また丹田を動かすすべを体得することで、防御力が向上できます。
種村修(種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー) 電話 090-8051-8198(午前8時30分~11時) メール tanemura1956@gmail.com

頭でっかち

私はかつて、頭で理解できればすぐにすぐに実践できると思っていました。 だから知識を重んじ、思考を重んじ、どれだけ知っているかが勝負だと思っていました。 これが今回のテーマの「頭でっかち」です。
しかし、今しみじみ感じていることは、自分で何度も繰り返し繰り返し体験して、その果てにやっとつかめるものが、本当に価値あるものだということです。
心でつかむ真実は、体験しないと、実は何もわかりません。 本当に身につくのは、繰り返し体験してやっとつかめたものです。
知識だけでわかったと思うのは錯覚で、それでは身につかないので簡単に忘れます。どれだけ頭で考えても実際の行動が伴いません。 「こうすれば幸福感が増える」と知識で知っても、それを実践して体験していない以上は、幸福感は感じとれません。 知識だけでは人間としての成長もありません。
このことが少しずつわかり始めると、まず実践し、体験し、繰り返していく中で、しっかりと感じ取ろうとし、そこで気づいたことを大切にしていくようになります。 こうするときに地に足の着いた成長が始まります。 それは実感できるものです。
頭で理解するときに使っているのは、首から上のエネルギーだけです。 しかし、体験して感じ取り気付くときは、全身のエネルギーを使っています。 頭だけ使うより全身を使うエネルギーの方が圧倒的に大きいです。 大きなエネルギーを使ってつかみ取ったものの方が、小さなエネルギーを使ってつかんだものより、より確かで深いのは当然だと思います。
種村修(種村トランスパーソナル研究所・心理カウンセラー) 電話 090-8051-8198(午前8時30分~11時)

洗脳を解くために

洗脳ということは宗教団体で多く見られることですが、大手のマスコミでも意図的なフェイクニュースで読者を洗脳しようとする傾向が顕著なので、広い意味で洗脳を受けている人は意外に多いのです。
洗脳を解除して自分の人生を取り戻すためには、そこが間違っていたと気づいて離れるだけでは十分とは言え得ません。宗教団体に入って洗脳されていたと気づき、脱会したとしても、それですべての問題が片付いたわけではないからです。
ある団体の信者になっていた人は、なぜそこに入ったのでしょうか。それが問題です。その根っこの部分が変わらないと、脱会しても心は信者の時のままです。 ある団体に共鳴して入ったということは、もともと持っていた欲がそこに入ることでより出やすい状態になっていたのです。自分の欲があぶりだされて自覚しやすい状態になっていたのです。いいかえると、自分の欲を自覚するための経験であったと言えます。
ですから、自分の持っている欲、そこに入ることでより顕著になった欲とは何か。それを見極めることが一番大事です。 次には、それは何処から来ているのか。用の発生原因を知ることです。 どこから来た欲化が自覚できると、変化が起きてきます。 それを見つめて気づきを得、心が変わることが、「心の脱会」のためには必要だと思います。
この時に大切なことは、ありのままの自分を見つめ、そういう自分があることを認めて受け入れることです。認めて受け入れないと、自分を変えることもできません。これは非常に勇気がいることです。潔さも必要です。
選民思想を植え付ける宗教は、往々にして伝道意欲が盛んで、入信することで自分は特別だという意識を植え付けます。
しかし、その団体に入ることで自分が特別な価値を持ったという意識は、その団体を離れると価値がはく奪されることを意味します。要するに自分の価値をその団体に依存するのです。 観方をかえると、その団体に帰属する以前の自分は価値がなかったという意識の裏返しです。自分の価値に自信がないので、その団体に入ることで知分に価値があると言い聞かせて、自分を欺いていたのではないでしょうか。そして人よりも上に立ったと思いこみ、上から目線で世間を見て、優越感に浸っていたのではないでしょうか。それは自分の個性の価値をみいだせていない劣等感の裏返しに過ぎません。
自分の価値は、もともと持っている個性にあり、その個性は根源的な存在につな…

依存の信仰、否定の信仰について

依存の気持ちをもって神社仏閣、または教会に何度も参拝すると、依存の信仰ちが深まっていきます。それでもいいのでしょうか。 ここが信仰行為の難しいところだと思います。
神様や仏様の力に頼って何かを実現したいという気持ちは、誰しもあると思います。それが神秘の世界や人間を超えた世界に触れるきっかけになる限りでは、いいことだと思います。
しかし、それが一歩間違うと、依存する気持ちを増長させ、人間を弱くし、時にはずるくさせる恐れすらあると思います。 ご利益信仰と一般的に言われるものには、その危険性があるように思います。
ご利益信仰は依存の信仰です。依存の信仰が人間の成長にとって弊害となるのは、そこに否定が入っているからだと思います。
のりうつりを取りたいとおもってお参りする場合を見てみます。これは憑依しているもの、要するに憑いているものを取りたいという場合です。 これは憑いているものを否定し、憑かれている状態への否定もあります。 それのどこが悪いのかと思うかもしれません。 憑いているものがあるということは、それと波長同通している自分にも原因が必ずあります。憑いているものはそれを教えてくれています。憑依されている状態は苦しいでしょうが、その苦しみが自分の心の状態があるべき軌道を外れていることを教えてくれています。自分を見つめることを促しています。
つまり、自分を見つめさせ、自分に何かを教え、自分が本来の成長の軌道に戻るように気づかせてくれているわけです。それに気づき、自分を修正してこそ成長が始まります。つまり憑依の苦しみは、停滞を離れて成長の軌道にもどるためのきっかけになるものです。
その折角のきっかけを、何も変わらないままに、ただお祓いで取ってもらうだけなら、そこには依存があるだけで成長の機会を失うことになるのです。
貧乏なので金持ちにして欲しいという祈りはどうでしょうか。ここにも否定があります。まず貧乏な状態への否定があり、その奥にはお金がない自分への否定もあります。 自分が貧乏なのは、貧乏でそこから何かを学び、それを通して成長することを自分自身の魂が求めているのではないでしょうか。 貧乏だからこそ、いっそう努力するということもあります。貧乏をまねいている自分の考えや癖を直そうというきっかけにもなります。 また貧乏な自分を否定するということは、自分といういのちの尊さの否定です。自分がさまざまな転生で経験…