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桜とイギリスパン

片道六キロの道を歩いて白髭神社にお参りしてきました。 神社の近くに桜並木があり、道の両側に満開の桜が咲き乱れていました。 日本の道百選に選ばれているという道だけあって、本当に見ごたえがありました。 この光景は白髭神社が与えてくさった恵みだと思いました。 桜の花は白に淡いピンクの慎ましい色合いです。 短い期間に一気に咲きほこり、そして潔く散ります。 桜は春を迎えた大地の喜びを全身で表現してくれています。 私は桜が大好きです。 そのとき私は日本人だなとしみじみ感じます。 桜は冬が終わりを告げる時、慎ましい色合いの花を一気に開花させ、そして潔く散っていきます。 この桜の花の姿に、私たち日本人の個性の理想を投影しているに違いありません。 色とりどりの個性を鮮やかに発揮することが日本の理想だと思います。 それは喜びであり、またそれを見た人は称賛を惜しみません。 こういう文化が日本には流れていると思います。 イチローや高梨選手を応援する日本人の気持ちには、そういうものがある気がします。 努力して自らの個性をあざやかに発揮する人を応援したいのです。 満開の桜を見て感じる喜びは、そういう喜びだと思います。 それとともに大地の喜びを感じ取っているのだと思います。 白髭神社から帰る道すがらに、パン屋さんがありました。 家族ずれが三千円近く沢山のパンを買われています。 私はイギリスパンを買いました。 自分でも何度か作ってみたことがあるので、研究したかったのです。 素晴らしいパン生地の柔らかさ、それは柔らかいというより優しいという表現がぴったりするほどでした。 しかもパンの耳が薄いのに芳ばしいカリカリ感がありました。 こんな素晴らしいイギリスパンを私も作りたいなと、心から思いました。 コックさんはいかにもパン屋さんというのにぴったりのおじさんで、こんなひとに教わる機会が欲しいなと思いました。 このパン屋のある道はいままで何度も通っているのですが、入ろうと思ったのはこの日が初めてでした。 これも白髭神社の恵みだと思いました。 自分の気持ちを白紙にして、参拝の往復の道すがら感じ取ることを大切にしながら歩いていると、色々な恵みを受けます。 恵

のりうつりの捉え方

のりうつりを受けている時は、体調が悪くなったり、自分の感覚がいつもとは違うはずです。 体調でいえば、喉がイガイガしてきたとき、のりうつりが浮き出していることがあります。頭が急に痛み出す時も、のりうつりの場合があります。もっとも取れる直前にも痛みが一時的に増すことがあります。それ以外に、身体が重くなかなか起きられないような場合にも、乗り移りを自覚しやすいと思います。 のりうつりのとき、自分という感覚がいつもと違います。透明な膜越しに自分という感覚を感じます。この時は自分がリアルに感じられなくて、何かが挟まっているようで心の反応がダイレクトに感じとれないのです。 もっとも、いつものりうつりと一緒にいるような場合、自分という感覚がよくわからないかもしれません。リアルですっきりした感覚、ダイレクトに感じとる感覚、そういう感覚で自分というものを感じとれているかどうか。それを点検するとわかるかもしれません。 のりうつりの影響を自覚したり、その懸念を感じたとき、考えるべきことは二つあります。 ①くっついているものは何かを教えようとしている ②くっついているものは自分が引き寄せている のりうつりがくっついているということは、何かを教えようとしています。何かに気づきなさいというサインです。自分が本来の自分らしさを見失っていることが、何かあるのです。自分が今そういう状態になっていると気づく必要があります。 のりうつりは、先方が意図的に攻撃してくることもありますが、その場合でも自分の思いや行動の中にのりうつりを引き寄せている要素があります。のりうつりと同じものを自分が持っているし、それを発しているから、そののりうつりがくっついているのです。のりうつりを引き寄せているのは自分だと知って、自分のどのような思いがそれを引き寄せているかを見出す必要があります。「あ、これか」と気付けたら、反省して同じ思いを持たぬように改善することができます。 この気づきは、のりうつりの思いを見抜くということでもあります。見抜けば思いは変化します。すると外れます。これは一つ成長できたことを意味します。 そういう方法とは別に、一時的に離すという方法があります。 何か別のことに集中すると外れやすいのは事実です。のりうつりと意識がずれたら