煩悩という言葉は仏教、つまり古代インドからきた言葉です。人に苦しみをもたらす様々な欲望や怒りや愚痴・愚かさの総称を指しています。
ウィキペディアには次のように説明されています。
苦しみを生みだし本来持っている知恵をくらますものだから、煩悩という言葉には非常に悪いもの、忌まわしいもの、否定するべきエネルギー、否定されるべき精神作用という印象が濃厚に付きまとっています。
しかし、この印象は自己を探究するうえで妨げになります。
なぜなら、煩悩も自分を知るための大事なサインであり、それを否定し抑圧していくと、自分が分からなくなってしまうからです。根源に向かう道を塞ぐのです。
もっと別の古い文明では「煩悩」を、「情」や「感情」などの意味を持つ言葉で表現していたようです。そういうとらえ方をすることで、「煩悩」という言葉にまつわる否定的な印象を拭(ぬぐ)い去る方がいいと思います。
煩悩即菩提という言葉があります。大乗仏教で唱えられた思想だと言われていますが、もっと根は古いのではないかと思われます。この考え方をした古代インドでは、本来煩悩は尊いものとして扱われていたに違いないのです。
なぜなら煩悩があるからこそ、それを足掛かりに自己に辿り着けるのですから。煩悩があるからこそ気づきがあるのです。これが煩悩即菩提です。もともと釈迦仏教が煩悩を見つめる訓練をしていたのは、そこから悟りに行きつけるからではないでしょうか。
仏教の歴史2500年の過程で、煩悩は滅すべき邪悪なエネルギーというイメージが固定化しました。しかし、今風にいうと、煩悩は「サイン」なのです。心の発する「合図」なのです。だからそれに気づけばいいのです。それが自己を知る手掛かりになるのですから。
結局、煩悩も、煩悩から生じた苦しみも、心の合図であり心のサインです。自分から出たサインなのです。
煩悩や苦しみを感じたら、自分の心の声を聴くときだと思ってください。苦しみは「自分を分かってよ」というサインだからです。サインだからこそ、苦しみは、自分が自分のことを分かるまで続きます。
例えば、あることですごく腹が立ち怒りが出たとします。何故そんな怒りが出るのでしょうか。ある一つの事象があっても、それで怒りを発し、それを苦しみとするかどうかは、自分の思いによって変わります。害されると思うから怒るのです。でも害されると思うかどうかは、自分の受け止め方によって変わるのです。
結局、怒るということを通して、自分の奥に潜んでいる恐怖心に気が付いて、それを認めて理解できれば、受け止め方はがらりと変わります。苦しみも消えるでしょう。
すると煩悩である怒りとそこから派生する苦しみは、自分の内にある恐怖心に気づくための手がかりであり、恐怖を持っている自分に気づいてというサインだったのです。サインですから、気づくまでは何度でも同じことが起きてきます。
煩悩や苦しみは本当の自分に気づくためのサインとして捉えるときに、有益な道しるべへと変わります。これが現代的な「煩悩即菩提」の意味だと思います。
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所)
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