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11月, 2017の投稿を表示しています

まず限界を見る。次に一歩を踏み出す

私はさまざまな失敗をした末に、成長するうえでまず必要なのは「限界」を知ることだと知りました。
まず限界を見る 自分の限界を見る。 そこから一歩を踏み出す
そういう導き方が、自分自身に対しても、人に対しても必要なのです。
私はまず「理想」を見て、自分をそこへ押し込めようとしがちでした。 でもこれには無理があるので、たいてい失敗します。 こけるのです。そして自分を見失います。
目標を立てる時も、まず一歩先に進むことを狙うのがよいようです。 10歩先を求めるとへたばって潰れます。
あまり欲張ると、自分の限界を見失います。
大金が欲しいと欲張ると、その願いが叶うと膨大な仕事が来ます。 しかし、体力と能力の限界を考えていないので、結局潰れます。 欲が強くて自分の能力と体力の限界を見失っているから、こうなるのです。
自分を成長させたい時は、まず今を変化させることが大切です。 これによって停滞状態が動き出すのです。
なにごとも長く続けるためには、欲張らないことが大切なようです。 毎回、一つ深めたら、それでよいのです。 何か一つつかめたら、それで十分です。

言葉の本質

言葉の本質は波動ではないかと考えるようになりました。 この宇宙には宇宙を成り立たしめている波動があり、リズムがあるように感じます。 言葉を使うとき、そうした宇宙をなりたしめている波動に近い存在に、自分自身が成り得る可能性があるのではないかと思います。 丹田を通した言葉は、そうした宇宙の波動の一翼を担うエネルギーを持っているのではないかと思うのです。
喉で言葉を発していても、それは薄っぺらで力のないものだと思います。 肚から出る言葉は、非常に心に響くエネルギーの強い響きをもっています。 肚から出る言葉のことを、丹田から出る言葉とも言います。 人体を一つの楽器に見立てると、丹田から出る言葉は、人体という楽器が最高の響きを奏でた状態です。
大学で声楽を学んでいる女性と話したとき、彼女は肚から声を出すために、毎日腹筋を鍛えたり身体的なトレーニングを欠かさないと教えてくれました。 肚から出る言葉、丹田からの言葉を出すには、身体的な訓練は不可欠です。 肚から出る言葉で声を発すると、澄み切っていきます。 その人固有の美しさを奏でます。 生き生きとしたその波動(バイブレーション)は自分を清め、元気にしてくれる力を感じます。
丹田を通った言葉には、その個性にしかだせない音色、波動、リズムを表現しているように思います。もっともその人らしい活き活きと輝いた個性のリズムが、丹田からの言葉には宿るようです。
その人の丹田、つまりその人の個性でしか奏でることができない波動やリズムがあるならば、言葉とは何でしょうか。 言葉の最も根源的な機能は、戦うためでも、伝えるためでもなく、個性が動き、個性が働くということかもしれません。
言葉が働くものであるならば、人の言葉に働かされている状態は、いわば奴隷の状態です。自分の個性の波動を忘れて出せなくなって、人の言葉、人の波動で動かされているのですから。
私が本を読んでいないと不安だという気持ちを長く持ち続けていたのは、言葉がないと不安だということです。 言葉がないと不安だというのは、誰かの発した言葉に捉われていないと不安だという心理です。奴隷の状態で安心を得ていたのです。これは奴隷の安心というべきでしょう。
人の言葉に動かされている自分を見つめてみると、自分が自分のリズムを奏でていないことがわかります。 人からの言葉で動くというのは、自分の丹田を通らない言葉で動くのであり、個性を発揮した状態と…

自我と丹田との戦い

私が思考の武器としての言葉を求めて本を読むようになったのは、京都大学在籍中に思想信条の違う学生との議論で負けないためでした。特に左翼の人たちとの議論に勝たなくては、大学内での思想信教の自由が確保できなかったのです。議論に敗れて悔しい思いをしたこともありました。

しかし「本を読むことが活字への依存をもたらしている」「活字に依存して思考することが自分の魂に目をふさぐ原因となっている」という反省が、ある時から芽生え始めました。少し前に書きましたが、明治神宮でのインスピレーションもそれを加速しました。
そこでこの問題をさらに追及していくうちに、根深い自分の問題点が見えてきました。
「本を手放せなかった自分は、いったい何と戦っていたのですか?」
この質問を見つめていると、「丹田と戦っていたのですよ」という答えが降りてきました。
丹田とは、いいかえると「魂」ということです。自分の根源であり、根っ子であり、また自分の全体でもあります。これが「丹田」だと思いますので、「魂」という言葉がぴったりきます。
自分の「魂」を理解しようとする時に、人の言葉で理解しようとしても、それはできません。本ばかり読む私は、人の言葉で、人の意見で戦っているので、これではいつまでたっても自分の本質に近づくことができないわけです。
心理学の勉強に取り組んで以降、本を読む動機は、自分の魂を頭で理解したいということでした。言葉で理解したかったのです。言葉で説明できないと、分かったことにならないと思い、必死で言葉を探していたのです。
しかし、それが丹田と戦っている姿であったのです。言い換えると自分の魂と戦っている姿だったのです。
「理解できないとこが怖いのか。 感じるだけのことが、そんなに怖いのか。 言葉にならないことが怖いのか。」
その問いかけが心に投げかけられました。 私は、「感じるだけ」の自分を拒んでいたのです。
私の奥にあるのは、「言葉で理解でき、言葉にできないことは価値がない」という思い込みです。
「分からないことを表現できて、言葉にしたら価値があると思っている。 分からないことを分かると、勝ったと思う。 つまり戦いの渦中にいる。」
鋭い追及が心に降り注ぎました。 当たり前のように本を読み言葉を探している私は、魂(丹田)との真っ最中だったのです。
「魂をすべて頭脳で説明しようとしている。 すべてを言葉で説明できるというおごりを持っている。」
追…

魂の感じる恐怖

私はある日、椅子に腰かけたままゆっくりと丹田呼吸をして、下腹部に位置するという丹田に意識を向けていました。 突然、「狭い穴に生き埋めにされる!」という恐怖心を全身で感じました。言葉ではなく、実際に狭い穴に埋められて生き埋めになる感覚が襲ってきたのです。あまりの恐怖で、椅子からとびのき、ハアハアと息が荒くなり、目を開けて口を開けて深呼吸しました。
丹田は悟性とつながりがあり、深層潜在意識やその奥にある心の中枢に通じています。その丹田に意識を集中していた時の出来事でした。
この体験が意味するものをつらつら考えてみると、これは私自身の丹田の気持ち、いいかえると魂の感じている恐怖を感じ取った経験であったと思われました。 生き埋めになる恐怖は、この世的に生きる意識に埋もれてしまうという恐怖心だったようです。これは丹田が持っている恐怖心であったと思われます。 それをダイレクトに感じとった気がします。 この世的に生き埋めにされている。 この痛切な丹田の思い、魂の感覚を感じた気がしたのです。
私は自分が変わろうと、本気で決意した時があったのですが、その以前はこの世的な意識に支配され、魂がそれに埋もれていたと思います。 当時、私は次のように気づきを書きました。
「私の魂はこの世に生き埋めになっていたのだ。 今までの私の意識は、まさに丹田を生き埋めにしていた。」
丹田の不安は、私の顕在意識でも感じていたことでした。当時の記録を見ると、私はこう書いています。
「自分はこのまま固まって変化なく、成長できない状態がどこまでも続くのではないかという不安を、いままで感じていた。これは丹田が感じていた不安だったということが分かった。」
この経験をした時は、すでに私の意識は変わっていました。本気で変わる決意ができた後だったからです。
でも、それまでの蓄積されていた魂の不安、恐怖は吐き出す必要がありました。 吐き出す方法は、不安、恐怖を繰り返し味わって、溜まっていたものを感じ取ることです。これによって過去に積み上げた不安や恐怖の堆積物が動き出し、消えていきます。
実際に、この後も、丹田呼吸をして丹田を見つめるたびに、不安や恐怖心を感じていました。それはしばらく続きましたが、そのうち消えてしまい、感じなくなりました。
関連記事「自我と丹田との戦い」
http://tanemura2013.blogspot.jp/2017/11/blog…

決意を固め激励を受ける

明治神宮にお参りした後に、近くにある東郷神社へお参りしました。東郷平八郎をお祭りした神社です。
ここで引いたお御籤(おみくじ)に、私はずっと励まされてきました。 お御籤は「吉」。次の和歌が添えられていました。
七尾八尾 山の深さに 此の道の まだ見ぬ奥に 花を尋ねむ
心を見つめ真の自己に至りたいという願いと決意を込めて、参拝したおりにひいたお神籤でした。いくつものいくつもの山の道を分け入り、はるかにはるかに遠い山奥のまだ見ぬ花を求めていく気持ちは、私の心の奥の奥を尋ねる気持ちと重なりました。
お御籤には努力主義を貫け、今日一日をおろそかにするな、目的を見据えて努力せよという趣旨の言葉がありました。これも私を励ましてくれた言葉でした。 以下転載します。
今日は明日への通路である。更に考え更に努め更に進む向上心求道の念は、一歩一歩大成に続く。明日の建設は今日の運営による。奥深く一点を予測して邁進なさい。 努力主義を貫きなさい。成功間違いなし。
明治の日本をロシアの脅威から守りぬいた軍神の気迫、息遣いが伝わってくる気がしました。 このお御籤に書かれていたもう一つの言葉も、東郷元帥の肉声だと思います。
25年、決戦の時来る。 ひたすらその時にそなえ己を磨き続けよ 努力主義を貫け 目標をもはやぶらすな
東郷元帥は、第二次世界大戦で日本と戦った米国の太平洋艦隊司令長官ミニッツが、生涯尊敬し続けた軍人でもあります。 こんな逸話が残されています。
<1961年(昭和36年)5月27日に無事「三笠」の復元完成開艦式が行われた際アメリカ海軍代表のトーリー少将は、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参し、三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹している。> (ウィキペディア「チェスター・ニミッツ」より)
話が飛びましたが、東郷神社で受けた激励を思い出すと、決意を新たにさせられます。感謝です。
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所) ※メールや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198
メール tanemura1956@gmail.com

明治神宮での気づき

最近はパワースポットを求めて、若い人や外国の方が神社にお参りされる姿を目にするようになりました。伊勢神宮に参拝したおりは、神宮内の御神木に手を当てたり身をよせたりして、「気」を感じている人の嬉しそうな姿が印象に残りました。
東京の最大のパワースポットである明治神宮にも、本当に多くの人がお参りされています。明治神宮は、鳥居を一歩入った雰囲気のすばらしさは格別です。さらにここでの参拝の楽しみは、お神籤で天皇皇后両陛下の御製や御歌が指針を与えてくださることです。
今年の2月末、明治神宮を参拝したおりも、お神籤をひかせていただきました。 昭憲皇后陛下の御歌 おこたりて 磨かざりせば 光ある 玉も瓦に ひとしからまし
自分の心の磨きについての教えでした。珠玉の個性を宿した心は磨かなければ、瓦ののように光がないものとなるので、常に怠らずに磨き続けよというおさとしでした。
この日の明神神宮参拝では、「私がいつも本を読み、本から離れることができないのは本への依存である」というインスピレーションがありました。 本は誰かが書いたものであり、内容が著者の直接体験したことであっても、読み手にとっては知識でしかありません。
自らの五感と心で直接体験して究めることを大切にしなければならない。
そういう思いが強く湧き上がりました。
「本の虫になるのが怖い」と感じたのは中学生の時でしたが、それ以来私は、活字に依存するあまり、五感と心を使って直接体験してつかむという努力が非常に希薄だったと思います。
本の中での知識では、他人の体験や枠から一歩も出れません。若い時に基礎をつくる上では読書も大事だったかもしれませんが、自分の心を知る探究をし始めると、自分の心や個性について書いた本はありませんので、読書は役に立ちません。
本を閉じて心を見つめる。 いろいろ経験してその時に自分が感じたことを注視する。 自分を見つめることを通して、宇宙へとつながっている自分自身を発見する。
そのためには、まず本を閉じることが必要で、「本を読むことは努力ではなく怠けである、逃避である」という気持ちがすごく強くなっていました。
本を閉じて自分に向き合う。それは依存心を断ち切ることである。 そう思いました。 現在は、ほとんどの本を処分して、もっぱら自分自身の五感と心で感じたことで自己を探究する日々を過ごしています。

感情の重要性

知識社会の現代では、知識とそれを使っての思考が尊ばれ、それに比して感情は一段立場の低いもので、どちらかというとやっかいなものとして扱われる傾向が強いと思います。
和歌が尊ばれ、そこで奏でる感情の美しさ豊かさや感性の鋭さが尊ばれた平安時代とは、大きく違うと思います。
私個人でいうと、感情は悟りの妨げという思い込みがあり、知識と思考偏重の価値感に長く染まっていました。
しかし、カウンセリングでは、人間にとって感情がいかに大事な役割を果たしているかを痛感します。
思考というのは、比較的忘れやすいものです。その思考も、感情や意志を伴って信念にまでなったものは忘れることはありませんが、たんに色々頭で考えた内容は、数年もすればほとんど忘れてしまいます。過去を振り返ってみても、その時期の思考だけを切り出してはっきり思い出すことは困難です。
思考よりもっと忘れやすいのは知識です。それは、テストが終わるとすぐに教科書の内容を忘れてしまった学生時代を振り返るだけでうなずけます。記憶力の良かった青年時代ですら、記憶の定着には相当な努力が必要でした。
それに対して、感情は、そう簡単には忘れません。相当以前のことであっても、傷ついた感情、悲しみ、怒り、喜び、そうしたもので特に強い感情は、しっかりと記憶に残っています。その時の情景や思考内容を忘れていても、その時期の感情は残りやすいので、感情を手掛かりに思い出すことができます。
つまり感情というのは、覚えておくことができるものなのです。だから強く残っている感情を手掛かりに、自分が経験し、しかも抑圧していた気持ちを掘り起こすことで、過去の自分と向き合い、心の傷を癒したり自分の壁を乗り越えることができるのです。
深層潜在意識にあると思われる過去世の記憶であっても、感情をまず感じ取れるようです。その感情を思い出し、その延長線上で見えてくるものを手繰りよる方が、正確に過去に経験して傷となっている内容に辿り着きやすいと言えます。なにを過去世で考え経験したか、思考として取り出すことははるかに難しいです。
このように感情は覚えておきやすいものなので、反省に使えるのです。反省は失敗など起こってほしくない出来事、自分として繰り返したくない出来事が起きたとき、それを繰り返さないためのするものだと思います。つまり自分に修正をかける作業です。
何かで失敗した時に、その時にどういう感情が…

境界線を引く

私たちはその日の自分の体調や心境やエネルギーの状態によって、どの程度のところまで境界線を伸ばせるか、もしくは境界線を狭めるかを決める必要があります。
エネルギーが乏しく体調が悪い時に、自分の境界を広げすぎると、非常に疲れます。そして相手からの影響、職場からの影響を受け過ぎて、心身のバランスを崩します。
そういうときにはのりうつりの影響も受けやすく、相手にも飲み込まれやすくなります。
さまざまな汚れを受けやすくなるのも、そういう時です。
私は以前、マンションの管理人として掃除の仕事をしている時に、目に見える汚れにはよく気が付くようになったのですが、目に見えない汚れに気づくことがなかなか難しかった経験があります。
何でもないところを掃除していて、突然足の関節が痛くなり、足を引きづりだしたことがありました。よくよく振り返ってみると、外からのエネルギーの影響であり、そのマンションの住民に膝関節の悪い人がいたと思われます。そのエネルギーを吸い込んでしまっていたようです。それに気づいたら、その痛みはとれました。
外からのエネルギーだと気づいたということは、自分と人のエネルギーの間に境界線を引いたことになります。内と外の境界線を引かないと、外のエネルギーと自分のエネルギーが一緒くたになり、外からの影響を受け続けます。しかし境界線を引くと、外からのエネルギーを分離できるので、影響を受けなくなります。
こういう経験から私も注意深く意識するようになりました。 まずその日の自分の体調を感じとり、自分の心境とエネルギーの状態を感じとります。そのうえで、自分の境界をどこまで拡大するか、縮小するかを決めます。 体調の悪い時は境界を小さめに設定する必要があります。決して無理せず自分をしっかり守り、ミスがない仕事をします。 体調がよく、エネルギーが満ちている時は、それを拡大することが可能です。そういう時は、人への影響を増やせます。
境界を意識するということは、人との間合いを考えながら仕事をするということです。自分の個性を常に輝かせて生きるためには、そうした工夫も必要であると思います。
心理カウンセラー 種村修 ※メールや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198
メール tanemura1956@gmail.com

微妙な欲の違い

欲は基本的には肯定するべきものだと思います。 欲は人間が生きていく上で必要不可欠なものだからです。
欲にとらわれていくと身を亡ぼすもとにもなります。 でも、とらわれなければ、欲に問題はないと思います。
自殺したくなるほどつらい時期であっても、欲が強く働いてがむしゃらに生きた場合は、自殺の誘惑に打ち勝つことができます。 欲は生きる意欲とも密接に結びついていると思います。
問題は、その欲にとらわれるかどうかですが、この問題を取り扱う際に、微妙な違いについて見極めておくことが必要です。その違いとは、
自分から出た欲なのか、 他人の欲が乗っかってきた欲なのか、
の違いです。 この違いを感じ取り確認する必要があるのです。
自分から出た欲であれば、必要なものです。その欲を否定して抑圧しなければ、欲は自分を生かし成長させる方向へ活用することができます。
しかし、他人の欲が乗っかってきている場合は、その欲が自分を滅ぼす方向に作用することがよくあります。必要以上に欲に捉われて、欲に振り回されて、自分を損なう恐れがあるのです。
例えば酒に飲まれている場合は、酒を飲みたい欲を持った他人のエネルギーが自分に入り込んで、そのエネルギーに操られて飲み込まれている場合があります。酒場などで、そういうエネルギーを吸い込んでしまうと、酒に飲まれて酒の上の失敗を経験します。
その違いは何でしょうか。 欲を認めて、欲を見つめていると違いが見えてくるはずです。
そしておかしいなと思ったら、他人の欲に呑み込まれているのではないかと疑うのです。酒のケースでいえば、酒を欲している他人のエネルギーに憑依されて操られているのではないかと、点検するのです。
自分から発した欲を適正な限度にとどめようと格闘しているのか、 それとも他人の欲に振り回されてもがいているのか、 それは大きな違いです。 他人の欲を自分のものだと勘違いしてしまうと、コントロールできなくなります。自分の欲と他人の欲の間に境界線を引くことで初めて、他人の影響を退けることができます。 だから、まず微妙な欲の違いに気づくことが決定的に大事なのです。
自分の欲の中にも、微妙な違いがあります。 それは本当の自己に近い欲なのか、肉体に近い欲なのかという違いです。
本当の自己の欲といっても分かりにくいのですが、魂の欲求とか個性自体の欲求という言葉で、少し感じがつかめるかもしれません。より向上し成長したい、もっ…