スキップしてメイン コンテンツに移動

心を見つめるときの注意点・・・「今」をみつめる



実はこの原稿は自戒のために書いているのですが、自分の心を見つめる際の注意点ですので、他の方にも知っていただくと役に立つと思い、綴らせていただきます。

私は、「今」から目をそらして、「過去」を調べようとする癖があることを自覚しています。

「過去に何か原因があったから、いまこういう思いや行動が出るのだろうから、過去を調べてみたい」と、そう思いがちです。
またこれは過去世の影響ではないかと考え、深層潜在意識に原因となる心の傷があるのではないかと思いがちなのです。

実は過去の目がいき、過去のことを調べ出すと、過去のエネルギーが甦ってきます。
それは迷いのエネルギーだったり、欲望だったり、自己否定や悲観だったり、多くの場合、過去に発していたネガティブなエネルギーが甦るのです。そして心が過去へと引きもどされます。
しかも、過去とのつながりを見出すと、それでわかった気になって納得して終わってしまうことが少なくありません。

しかし、一番大切な問題は、「今」、そして「未来」をどう創るかにあります。

今の思いが過去の思いに直結している時は、その過去を調べることは「今」を見つめることに直接つながります。
ところが、いつも過去に目をやる癖がついていると、過去に引き戻されるばかりで、今を変えることもできず、まして未来が創れません。行動の変容が起きません。
「過去にこういうことがあったからこういう今があるのだ」と、幾ら納得しても、それで終わってしまえば、何も変わりません。
これは過去に向かうことで、「今」や「未来」から逃げているのです。
自分が過去を調べている時、「今」から目をそらせていないかどうか、チェッする必要があります。

常に過去を見つめようとする癖は、それ自体が問題です。
自己成長に何の意味もなく、過去のエネルギーが戻ってくるだけということが少なくないからです。

「今」を見つめないと、自分の今の思いや感情に気づくことができません。
私たちは、「今」の感情や強烈な思いから目をそらさずに、向き合うことによってのみ、変化していけます。

心を見つめる時に過去を起点とする私の癖は、ある系統の仏教的な思想を学び過ぎたことでつけた、フィルターです。このフィルターを取り去って、「今」を見つめなくてはいけないと反省しています。

このことはカウンセリングでも、とても重要です。必要に応じて過去のことをお話も伺いますが、過去を話したからといって、今が変わるかといえば、必ずしもそうとは限らないのです。かえって過去の傷口が開いて辛くなるだけということも少なくありません。

誰にも言えず、ずっと一人で抱え込んでいた心の荷物をカウンセラーに話すことは、心を軽くするうえで効果があります。心の浄化にもつながることが少なくありません。
しかし、何でもかんでも過去を話しさえすれば、今がよくなるかといえば、必ずしもそうとは言えないということです。
見つめ気づく必要がある感情や思いは、まず「今」です。今何が心に湧きあがり、去来しているのか、それこそが大切です。その思いや感情に気がついて、その意味を見つめていくときに、心の変容が起きてきます。

その為に、心に正直になり、自分自身に正直になるということは、とても大切です。こんな思いが出るのは恥ずかしいからというので、無意識に気づけなくしてしまう働きが、心にはあるからです。抑圧してしまうと言ってもいいと思います。要するに、否定するのです。

でも本当に大事なことは、否定することではなく、受け入れることです。ありのままの自分を、自分のありのままの感情や思いを認めてあげて、こういう思いがあるということを、そういう思いが湧いてくる自分だということを受け入れるのです。そしてそれに向き合った時、初めて変容が起き始めるのです。

常に「今」から目をそらすな。これを自戒の言葉にしたいと思っています。


関連記事「反省のコツ」


種村トランスパーソナル研究所(心理カウンセラー種村修)
当研究所では皆様のご相談をお受けしております。カウンセリングはおもにメールと電話によって行っております。
連絡先:℡ 09080518198

コメント

このブログの人気の投稿

自己特別視と依存の心理

自分を特別視 して 肥大した自我 を持つ人には、しばしば 依存心 が見られます。 プライドが高く自分は特別にすごい人間だと、内心思っているのに、世間で通用するような実績や成果が出ないで屈折する人がいます。 素質を持ちながらも、この人の心理の奥に依存心が潜んでいて、それがその人の努力と成長を妨げているのです。 よくあるケースとして、生育過程でその人が親や祖父母から特別扱いをされ、それゆえに自己特別視と依存の心理が育ってしまう場合です。 ある男性の家系では、 3 ~4代前のご先祖の当主が自殺したそうです。それまで栄えていた家は、そこから暗転し、 それ以降は、家系には男子が恵まれず、産まれても育たずに早死にし、女性によって細々と血筋が守られてきました。 その男性は、この家系にようやく生まれ育った待望の男児でありました。 ですから、祖父母やご両親の愛情と期待を一身に受けながら、特別な存在として大切に育てらたのです。 この男性にとっては、自分は特別な存在であるということは周囲から植えつけられた、空気のように当たり前の固定観念でした。そして非常に大事にされて育ったので、自分は特別な存在だから愛される、愛されて当然の存在だという気持ちも無意識に育っていたのです。それは依存心につながるものでした。 こうした特殊事情がなくても、普通に長男としてその家に生まれ、祖父母が特別長男をかわいがる場合、よく似た現象が見られることがあります。 長男として生まれた男児を、祖父母が特別愛情を注ぎ、何でも先回りして世話を焼き、母親も同じように手をかけて息子を育てた場合に、それが生じます。 本人は、自分は特別であるという自己特別視を持っており、自分の価値基準に反する学友を蔑視しがちです。無条件に大切にされてきたので、愛されるのが当たり前だという気持ちがあり、人の感情に対して無神経になります。その結果、積極的に自分から人に関わるコミュニケーション能力が育たず、孤独で孤立しています。 彼には親や祖父母への依存心が根っ子にあるので、無意識に誰かが何とかしてくれるという気持ちがあり、自立してゆくための気力や努力が乏しくなります。「自分は特別だから愛され大切にされて当然だ」という思い込みがあるので、感謝の薄い、傲慢な人間になりや

無気力と魂が腐る感覚

学生の頃、学内での深刻なトラブルで無為の底に沈んでいた時期がありました。 勉強も運動もできず、授業に出席することもできませんでした。 その頃の下宿の部屋はチリと洗濯していない衣類で埋まり、悪臭が漂っていたと思います。 無気力の淵に沈み込んだまま、身体も重く、毎日が憂鬱で生きている実感がない状態が続いていました。 その頃、本棚にあった古代インドの聖典を開くと、無気力で何もなさない人は魂が腐っていくと書かれていました。 ギクッとして、「今の自分だ」と思った、その衝撃を鮮明に覚えています。 「この状態を続けると自分は腐っていく」という恐怖に襲われ、反省が生じ、自分を変えようとし始めました。 そこでまずしたことは、部屋の掃除からでした。 思い返すと、無気力やうつ状態から脱する時は、たいていの場合掃除から始めていたように思います。 経営危機に直面していた会社に勤めたときも、朝一番に出社して、まず掃除から始めました。 この会社の再建は、中年の危機からうつ状態に陥った私の心の再建にリンクしました。 掃除には不思議な力があります。 掃除は、部屋や住まいの掃除を、少しずつ毎日行うのが基本です。 勉強でも仕事でも、何かを始める前にどこか一カ所をきれいにします。 するとそこを通るたびに、心がすっきりして、やる気が出るから不思議です。 毎日どこかを掃除していくと、だんだん住まいがきれいになり、同時に心もしゃきっとしてきます。 無気力で苦しんでいる時には、まず掃除からの出発が効果的かもしれません。 関連記事 無気力と向き合う  http://tanemura2013.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html 無気力と逃避  http://tanemura2013.blogspot.jp/2016/07/blog-post_2.html <ご案内> 種村トランスパーソナル研究所では、直接お会いする対面カウンセリングとともに、電話カウンセリングやメールによるカウンセリングも行っています。 相談してみたいと思われるかたは、遠慮なくご連絡ください。 ℡ 090-8051-8198  (メール) tanemura1956@gmail.com カウンセリン

洗脳の後遺症を治癒するための夢分析

宗教による洗脳は、深い影響をその人に与えるために、脱会してからも後遺症の除去には時間がかかります。 往々にして夢は、後遺症の存在とその内容を示すサインとなります。従来所属していた宗教にまつわる夢の分析は、非常に重要です。 十数年前まである宗教の職員、いわゆる出家をしていた経験を持つOさんは、ある明け方、夢をみました。 「私は夢の中でその教団の職員をしていました。そこでは職員に対して次から次へと勉強を要請されており、職員たちは数学の勉強をしていました。公文のテキストにとり組んでいる人も何人かはいました。私は同じようにその勉強をしなければと思いながら、少し引いた立場にいたようです。職員時代に味わった、追い立てられるような気持ちがのこっている状態で目が覚めました。」 Oさんによると、この宗教は職員を競わせ、次々と勉強や新しい仕事にまつわる知識の習得を要求していました。それによって、職員を息をつかせない状態におき、常に周りと競わせ、その結果によって優劣をつけます。一つの分野で優れたものをもっても、別の分野、例えば数学(注:これは象徴的な表現です)という宗教とは一見関係が薄いものを学ばせて、競わせるので、職員は常にせかされて追い立てられているのです。 こういう競争状態に常に置かせることで、教祖は弟子が団結することを防止し、教祖の意のままに分断してコントロールしやすい状態においていた気がすると、Oさんは回想しています。 さて、知識の集積は、自分の心の内側を探究するのではなく、外へ外へと意識を向けさせます。本来の自己は何かという、最も本質的な内側への目を閉じさせて、外へ外へと意識を向けてゆきます。 常に あたらしく有用な知識が蓄積されていかないと、不安に陥るようになっていきます。 長くこの状態に染まっていると、次第に超越的な存在の一部である価値ある自己を忘れていき、外から何かをつけ足さないと価値が減少してゆく、という自己感覚を、身につけるようになっていきます。 自分の存在自体に価値を見いだせないものは、自分を見失い、自己を喪失します。そして、上や外から与えられる評価つまり有能さや有用性の尺度で自分の価値を図るようになるため、非常にコントロールされやすくなります。 Oさんは、勉強が好きで知識を習得すること