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自己否定の氷を解かす①

自分が自分の存在を否定して、固まってしまうことがあります。
固まってしまうと、エネルギーが固定するので、その部分の成長が止まるのです。これは、つらい過去があり、その記憶を封印しているときにおきている現象です。
固まる理由は、そこに自己否定が働くからではないかと思います。
例えば、非常に情が深い方がいるとします。 この方は情の深さゆえに、「人を救いたい。誰も置き去りにしたくない。誰かを苦しみのなかに放置したくない」という気持ちを、信念として持っているといます。 こういう方が、良かれと思ってとった行動の結果、よくないことが起き、人を救おうとしたのに見殺しにしてしまうような出来事が起きたとします。
するとその方は、深刻な自己否定をする可能性があります。情が深ければ深いほど、深刻な自己否定に陥る可能性は高いと思います。
そのときの自己否定はこういう気持ちです。
「自分がいるから悪くなった。自分なんていないほうがいいんだ!」
こうして自分自身を氷の中に封印し閉じ込めてしまうことが起こり得るのです。
氷というのは一種の比喩ですが、氷のようにカチカチになって自己否定の思いに固まっている状態です。
もしそうなったとしたら、その氷の固まりをどうやって溶かすことができるのか。
トラウマのカウンセリングというのは、固まった氷を解かすことでもあると思います。氷が解けることが、実は癒しということであると思うのです。 それについて、未熟な経験と知識から、これからしばらく方法を探ってみたいと思います。(続く)
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所) ※メールカウンセリングや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198
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存在する意味

私はある方の深層潜在意識(過去世の個性)の発する叫びを聴いていました。 それは魂から絞り出す切実な言葉でした。
こういう状態で存在する意味があったのよ。 なのに、どうして過去すべてが幸せだと、あなたは言えないの? この私も存在してよかった、幸せだったと、そう言えないの?
私はこの言葉を聴いて、自分を振り返りました。 そして自分に問いかけました。
<自分の過去に対して、これがあったので自分は不幸だと思っている気持ちはないだろうか。>
<その時の自分が存在する意味を認めてあげず、その時の自分を否定して、いつまでも悔やんでいることはないだろうか。>
ほとんどの過去については、自己否定をやめて肯定へと転じたつもりなのですが、ひとつだけ引っかかっているかもしれないところが残っていました。
それは現役で京都大学農学部に入ったのに、4年間在学し、1年間休学したのちに退学し、自分の意志を貫いて東京に出て、政治的な改革を志して編集関連の仕事についたことでした。京大で左翼学生運動との思想的な対立を経験してから、悩んだすえのことでした。3回生のころから学部の勉強はほとんどせず、左翼が否定する日本のすばらしさを掘り出したいという動機のもとに、京大を卒業することを断念して畑違いの職業を選択したのです。
親との葛藤も深刻に経験しました。また興味関心を失ったとはいえ、大学の学部の試験で納得できる点数がまったく取れなくなってしまったことには強い劣等感を持ちました。それまで試験において劣等生だった経験がほとんどなかったからです。
でも心に傷は残りましたが、意志は固かったと思います。 自分は何をするために生まれて来たのか、何を志して生きるべきなのかをずっと考えたすえの結論だったからです。また自分がこれをなさずして誰がやるのかという気負いにも似た思いも、進路を決めた中にはありました。
結果として、この世的な安定や世間の評価する道を捨てるという決断をしたのは、潔さでもあったと思います。昔の仏教の出家者が世俗への執着をきっぱり捨てたような、人生の退路を自ら断つ気分もあった気がします。

煩悩と苦しみ

煩悩という言葉は仏教、つまり古代インドからきた言葉です。人に苦しみをもたらす様々な欲望や怒りや愚痴・愚かさの総称を指しています。
ウィキペディアには次のように説明されています。 「煩悩(ぼんのう、サンスクリット語: क्लेश, kleśa、クレーシャ)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げるの働き(汚れ)を言う。」
苦しみを生みだし本来持っている知恵をくらますものだから、煩悩という言葉には非常に悪いもの、忌まわしいもの、否定するべきエネルギー、否定されるべき精神作用という印象が濃厚に付きまとっています。
しかし、この印象は自己を探究するうえで妨げになります。 なぜなら、煩悩も自分を知るための大事なサインであり、それを否定し抑圧していくと、自分が分からなくなってしまうからです。根源に向かう道を塞ぐのです。
もっと別の古い文明では「煩悩」を、「情」や「感情」などの意味を持つ言葉で表現していたようです。そういうとらえ方をすることで、「煩悩」という言葉にまつわる否定的な印象を拭(ぬぐ)い去る方がいいと思います。
煩悩即菩提という言葉があります。大乗仏教で唱えられた思想だと言われていますが、もっと根は古いのではないかと思われます。この考え方をした古代インドでは、本来煩悩は尊いものとして扱われていたに違いないのです。
なぜなら煩悩があるからこそ、それを足掛かりに自己に辿り着けるのですから。煩悩があるからこそ気づきがあるのです。これが煩悩即菩提です。もともと釈迦仏教が煩悩を見つめる訓練をしていたのは、そこから悟りに行きつけるからではないでしょうか。
仏教の歴史2500年の過程で、煩悩は滅すべき邪悪なエネルギーというイメージが固定化しました。しかし、今風にいうと、煩悩は「サイン」なのです。心の発する「合図」なのです。だからそれに気づけばいいのです。それが自己を知る手掛かりになるのですから。
結局、煩悩も、煩悩から生じた苦しみも、心の合図であり心のサインです。自分から出たサインなのです。
煩悩や苦しみを感じたら、自分の心の声を聴くときだと思ってください。苦しみは「自分を分かってよ」というサインだからです。サインだからこそ、苦しみは、自分が自分のことを分かるまで続きます。
例えば、あることですごく腹が立ち怒りが出たとします。何故そんな怒りが出るのでしょうか。ある一つの事象があっても、それで…

見たくない気持ち

私たちは、自分の中から本当に見たくない気持ちが出ると、それを否定し、拒絶するだけでなく、それを破壊したい気持ちも出てきます。
見たくない気持ちとは、醜い(と感じる)欲望であったり、嫉妬や競争心、殺意など、さまざまなものがあると思います。それは仏教では煩悩といわれているものです。
でも、それを見ないことにしたり、ないことにするのではなく、そういう気持ちを持つ自分を受け入れ、そういう自分を理解すると、私たちは変化します
私たちは宇宙のエネルギーによって創られています。というより宇宙のエネルギーが分化した個性が私たちそのものです。
ゆえに自分が本当に自分を理解することが、宇宙のエネルギーを理解し、知ることになるはずです。
この宇宙のエネルギーは、自分の個性の根源のエネルギーであり、その根底にある超越潜在意識でもあります。
自分を知るということは宇宙のエネルギーを知り超越潜在意識を知るための手がかりです。自分が分からないと、そこには到達できません。
そこへ到達するには、自分を知ることが必要です。
だからこそ、自分を正当化してごまかしたり、感情を抑圧したり封印して置き去りにすると、自己の根源にはたどり着けないことになります。
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所) ※メールカウンセリングや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198
メール tanemura1956@gmail.com

隠した感情

私たちは、無意識的に自分の感情を隠してしまうことがあります。本当は感情の声が聞こえているのに、聴かないで、そんなものは無いようにふるまい、本当に自分から隠してしまうのです。
隠された感情は、取り残され、潜在意識に蓄積されていきます。エネルギーとして溜まっていくのです。溜まりすぎたエネルギーはいつか必ず自己主張します。隠された感情はどこかで気づかざるをえないようになっています。
感情を隠すと、取り残された感情が潜在意識に蓄積されていきますが、それをどのように気づかせるかという点では、個性によって特徴があります。少し蓄積した段階で気づかせる個性もあれば、隠したままにしておいて気づきやすい段階まで蓄積するままにしておくという個性もあります。
ですからカウンセリングでの人の導き方は、千差万別です。個性を無視した一律の導き方はできません。相手に寄り添って、よく聴きながら、心で個性の声を感じ取りつつカウンセリングを進める必要があります。
ある方は知人から「あなたは本当に幸せなの?」と聞かれて、考え込んでしまいました。自分は豊かで幸せだと思っていたのに、あらためて面と向かってそれを聴かれたときに、即答できない自分がいました。「幸せで豊かです」という本音の自分を否定して「まだまだです」という癖が、この方にはあったのです。
これはささいな問題に見えて、実は根深いものがありました。この方は根深く自己否定の癖をもっていて、自分を認めることがとても苦手だったのです。
実は深層潜在意識の奥にどうしても肯定できない自分を経験した強烈な記憶があり、どうしても自分を受け入れることができないで苦悩した時間がとても長く続いてきたのです。自己否定の癖はそこに起因していました。
さて、「隠された感情」、言い換えると「取り残された自分」の癒し方についてお話します。
まず前段階として、隠された感情があふれ出てきたときに、全身で表現しているその感情を感じ取ることが大切です。隠された感情は、どこかで何らかの形であふれ出てきて気づかざるを得ないようになっています。そのときに、しっかりとその感情を感じ取り味わうことが大事なのです。「私は本当はこんなふうに感じていたのね」、と受け止めることです。
そして、あたかもその感情がないかのようにふるまっていた自分を理解し、その気持ちにも寄り添います。
そのうえで、「こうしよう」もしくは「こうした…

自己否定と成長

カウンセリングでさまざまな人の話を聴いたり、自分の人生を振り返ってみて感じるのですが、人間というのは魂が大きくなるために実に様々な経験をしていると思います。 「魂が大きくなる」というのは、言葉を換えると「心が成長する」ことです。
不幸と見える極端な経験であっても、それを通してしか学べないことがあると思います。その時にできた心の傷を癒しつつ、「何を学ぶための経験だったのか」と問いかけ、その経験の意味に気づけると心は成長します。
その結果、あれほど苦しみ嫌なことだと思ってきたことが、感謝に変わります。「この成長のためにはこういう経験が必要だった。障害物と見えたのは、ジャンプ台だった。」 そう気づけると感謝に変わるのです。感謝が湧き出たら、その経験は卒業したと考えてよいと思います。
そうした体験を数多くすると、経験することのすべてを肯定できるようになっていきます。この肯定は善悪の善という意味ではなく、魂の成長にとって意味のある有り難いこととして肯定できるのです。
とりわけ肯定するようになるのは自分自身です。
とりわけ心に傷を負うような経験では、ほとんどの場合「自己否定」をしています。この自己否定によって、自分を委縮させたり、個性をゆがめたり、個性の生き生きとした発揮ができない状態に陥ります。
現代はうつで苦しむ人が多いのですが、うつの人は必ず深刻な自己否定を抱えています。うつは自己否定の病気だと私が思うのは、現在・過去・未来にたいして自己否定し、自分の能力や人間性や人生を否定し、深い自己不信を抱えているからです。
誰にでもある自己否定ですが、「自己否定をとるプロセスこそが心の成長」だと思います。
自己否定を取って現在の自分を抱きしめたとき、また過去や未来の自分をも抱きしめたときにこそ、心は成長するのです
ですからうつの時は、自己否定の思いと向き合っている最中ですので、最も成長のチャンスに遭遇しているといえるのです。
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所) ※メールや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198
メール tanemura1956@gmail.com

自己探求のテーマ

日々の成長を目指して自己探求をしていくと、探究のテーマをどう設定するかについて、考えることがあります。 その時に、過去の自分を振り返りそこからテーマを探そうとする気持ちが起きることもあると思います。
もし、その過去が今の自分(の心境)に直接関係してくるのであれば、それはテーマになり得ます。 でも、今の自分の気持ちと直接関係がないのに、単に過去を取り上げるのであれば意味がありません。単に過去がえりをするだけです。
自己探求のテーマがなくなったら、「いまこの場で、この生活の中で起きていることを見る。そこには自分に関係した何かが起きている」と考えることが必要です。
家族の中に出てきた出来事にも、自分と共通する問題が出ていることがあります。家族におきていることをよく見て聴いて、自分に照らしてみ必要があります。
あるいは誰かと話して、その方のエネルギーの影響を受けていることもあります。その場合は、自分にもその方と同じ問題を抱えていて、相手のエネルギーをが引き寄せている可能性があります。そういう観点から自分を振り返ると、気づきが得られることがあります。
いずれにせよ、「今、ここ」に自分の探究するべきテーマがあります。 単なる過去の探究は効果が薄いのみならず、過去のその当時の波動に逆戻りするだけのことになるので弊害があることもあるのです。 過去は今(の心境)に関係する場合にのみ振り返るのがよいと思います。
心理カウンセラー 種村修 (種村トランスパーソナル研究所) ※メールや電話でのカウンセリングを行っています。 <連絡先> 電話 090-8051-8198 メール tanemura1956@gmail.com


まず限界を見る。次に一歩を踏み出す

私はさまざまな失敗をした末に、成長するうえでまず必要なのは「限界」を知ることだと知りました。
まず限界を見る 自分の限界を見る。 そこから一歩を踏み出す
そういう導き方が、自分自身に対しても、人に対しても必要なのです。
私はまず「理想」を見て、自分をそこへ押し込めようとしがちでした。 でもこれには無理があるので、たいてい失敗します。 こけるのです。そして自分を見失います。
目標を立てる時も、まず一歩先に進むことを狙うのがよいようです。 10歩先を求めるとへたばって潰れます。
あまり欲張ると、自分の限界を見失います。
大金が欲しいと欲張ると、その願いが叶うと膨大な仕事が来ます。 しかし、体力と能力の限界を考えていないので、結局潰れます。 欲が強くて自分の能力と体力の限界を見失っているから、こうなるのです。
自分を成長させたい時は、まず今を変化させることが大切です。 これによって停滞状態が動き出すのです。
なにごとも長く続けるためには、欲張らないことが大切なようです。 毎回、一つ深めたら、それでよいのです。 何か一つつかめたら、それで十分です。

言葉の本質

言葉の本質は波動ではないかと考えるようになりました。 この宇宙には宇宙を成り立たしめている波動があり、リズムがあるように感じます。 言葉を使うとき、そうした宇宙をなりたしめている波動に近い存在に、自分自身が成り得る可能性があるのではないかと思います。 丹田を通した言葉は、そうした宇宙の波動の一翼を担うエネルギーを持っているのではないかと思うのです。
喉で言葉を発していても、それは薄っぺらで力のないものだと思います。 肚から出る言葉は、非常に心に響くエネルギーの強い響きをもっています。 肚から出る言葉のことを、丹田から出る言葉とも言います。 人体を一つの楽器に見立てると、丹田から出る言葉は、人体という楽器が最高の響きを奏でた状態です。
大学で声楽を学んでいる女性と話したとき、彼女は肚から声を出すために、毎日腹筋を鍛えたり身体的なトレーニングを欠かさないと教えてくれました。 肚から出る言葉、丹田からの言葉を出すには、身体的な訓練は不可欠です。 肚から出る言葉で声を発すると、澄み切っていきます。 その人固有の美しさを奏でます。 生き生きとしたその波動(バイブレーション)は自分を清め、元気にしてくれる力を感じます。
丹田を通った言葉には、その個性にしかだせない音色、波動、リズムを表現しているように思います。もっともその人らしい活き活きと輝いた個性のリズムが、丹田からの言葉には宿るようです。
その人の丹田、つまりその人の個性でしか奏でることができない波動やリズムがあるならば、言葉とは何でしょうか。 言葉の最も根源的な機能は、戦うためでも、伝えるためでもなく、個性が動き、個性が働くということかもしれません。
言葉が働くものであるならば、人の言葉に働かされている状態は、いわば奴隷の状態です。自分の個性の波動を忘れて出せなくなって、人の言葉、人の波動で動かされているのですから。
私が本を読んでいないと不安だという気持ちを長く持ち続けていたのは、言葉がないと不安だということです。 言葉がないと不安だというのは、誰かの発した言葉に捉われていないと不安だという心理です。奴隷の状態で安心を得ていたのです。これは奴隷の安心というべきでしょう。
人の言葉に動かされている自分を見つめてみると、自分が自分のリズムを奏でていないことがわかります。 人からの言葉で動くというのは、自分の丹田を通らない言葉で動くのであり、個性を発揮した状態と…