自分の尊さを信じることは、とても大切ですが、とても難しいことでもあります。
この自分の尊さとは、学歴も年収も社会的な立場も関係ありません。健康状態も無関係です。
自分というものが尊いという感覚は、心の奥底の自分、つまり自己(Self)の尊さです。
この自己は禅宗などで真我と呼ぶものに近い感覚だと思います。
私は中年の危機と呼ばれる時期にリストラを経験しましたが、それをきっかけとして自分の価値を自分で徹底的に否定する心理経験をしました。
この時の自己否定は、自分の価値を疑い自分自身をさげすむものでした。
感覚的にいうと、自分に対して斜にかまえて、自分をななめ下に見降ろしていました。まったくつまらない価値のないものを見くだすような感じです。
自分が自分を斜めに見くだしているので、言葉も自嘲的な表現が増えました。
常に自分を心の中で自嘲していたのです。あざけっていたのです。
ところが自嘲的に自分をおとしめている自分の言葉が、あるいはその雰囲気がといったほうがいいのかもしれませんが、近くに接する人を見下しあざけっていると誤解されたことが何度もありました。
話を分かりやすくするために、<見下してあざけっている自分>を自我と呼び、<見下されている自分>を自己と呼びたいと思います。
この時に自我の自己に対する態度は、非常に傲慢です。
自我が自己を見下しあざけっているのですから、自我はとても傲慢です。
その自己への傲慢さに他人がふれると、高慢な人間が他人を見下していると勘違いされるのです。
勘違いされてブーイングを受けたときに、「いや自分自身をさげすみ自嘲しているのであって、決してあなたのことを見下しているのではありません。誤解です」と言い訳していました。
しかし、今思うと、自嘲する際に発している心の調べ、その心の波動は、傲慢さそのものであったと気づきます。
とても傲慢な心理状態にあったのです。
自己に対して自我が傲慢だったのです。
この自己、禅宗などで真我と呼ばれるものは、宗教的に表現すると神仏の性質を持った尊いもので、内なる神(神性)、あるいは仏(仏性)につながっています。要するに自己は個を超えた超越意識につながっているのです。
その自己をさげすむ心的な態度は、自分を支えている大いなる存在に対しても傲慢となります。
一例をあげます。不幸のどん底で人は自暴自棄になり「神も仏もあるものか、神仏がいるのならこんな不幸な自分を救ってみろ」と叫びたくなることがあります。この時の心理状態は、大いなる存在を否定するほど傲慢になっているといえます。
私はそれに類することが当時の私に起きていたことだったと気が付きました。
限りなく自分を卑小に見て自己否定しているのに、そのときの自我の波動は、極めて傲慢であるというのは、まさに逆説的です。
自己の尊さを否定し、自分を尊重できない時が傲慢なら、自己の尊さを受け入れている時は謙虚です。この時は大いなる存在に対しても謙虚です。
自己を尊いもの、言い換えると尊い個性として敬う気持ちは、個性の奥にある大いなる存在(超越意識)を敬う気持ちにつながっていきます。
この謙虚さは、自分が存在することへの感謝、個性があることへの感謝をともないます。
そして尊い自分の個性をよりよく発揮して、自分を大切に人のためや宇宙のために尽したいという思いが湧いてきます。
その尽くしたいという思いは、具体的には日々の仕事や家族や動植物とのつながりの中で、愛の行為として発揮されるように思います。
自己を尊び敬う思いは、謙虚さと感謝を伴い、愛の発揮へと向かうものです。その時に経験するのは、自分が自分らしく貢献しつつあることに喜びを感じる幸福感であると思います。
そこには人との比較はなく、年収も社会的な立場も、男女の差も、国籍も、年齢も健康状態も関係がない幸福感があります。
自己の尊さに気づき、それを受け入れるということは、これほど大切なことであるのです。
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種村トランスパーソナル研究所 (心理カウンセラー種村修)
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