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10月, 2016の投稿を表示しています

自分の欠点を自覚する時・・・みじめさと怒り

自らを振り返って思うのですが、私たちは他者からの指摘がないと、自分の欠点が分からないように思います。 自分の欠陥について、誰かに指摘され、時には辱めと感じることも経験して、初めて自分の大きな欠陥に目を向けることができます。 そういう時はしばしば、相手の言葉に猛烈な恥辱を味わい、相手への激しい怒りを感じます。 そういう場合、よくよく考えてみると、恥ずべき自分の姿を見ないようにし、抑圧していた自分がいたことに思い至ることがあります。 相手の言葉によって描きだされた醜い自分の姿に触れて、それを自覚させられたのです。 もしも自分にそうした内心の秘めた思いがなければ、怒りは感じないはずです。 心の奥底では、知っているのです。 本当は、自分のその姿を醜く思い、それを恥ずかしいと思っているのです。 自分をとてもみじめだと思っているのです。 でも、それを抑圧して感じなくしているのです。 ところがわたしたちの欠点を指摘する言葉で、隠してみないようにしていた姿が見せつけられるのです。 すると、みじめな自己否定の思いと、相手への怒りが同時にこみあげてくるのです。 そのことに気がつけると、怒りは収まります。 自分をみじめだと思って自己否定していた本音の感情にも気がつき、その感情をつぶさに味わうと、不思議なことに、その気持ちが薄らいで消えてゆくことがあります。 そういう時は心が穏やかになります。 怒りが消えているのにも気がつきます。 「この方が私が自分に対しても隠していた姿をあぶりだし、見せてくださったから、抑圧していた感情に気がつくことができたのだ」 こういう思いが出ると、自然に感謝が湧いてきます。 相手は自分の性格を改善する機会を与えてくれ、 向上する機会をくださったと思えるからです。 「欠点を示してくれた人のことを、自分の知らない 秘宝 を発掘してくれた人、と考えた方がよいのです。自己を改善するためには、まず自分の欠点を知る必要があるからです。」 ( 『マインドフルネス』からの引用 ) 私の経験から得た教訓は次の通りです。 自分が抑圧していた姿を誰かが暴き出してくれた時に、私たちは猛烈な恥辱と相手への激しい怒りとを感じます。 その時は、自分が抑圧して

自己洗脳に気づく

洗脳を受けたとわかった時、 私たちは自分が洗脳の犠牲者であったことを知ります。 しかし洗脳は、カルトの指導者や虐待の加害者が 一方的に強制してきただけではないことに気付く必要があります。 実は自分で自分を洗脳してきたからこそ、 長い期間、その指導者や虐待者のもとに支配され依存してきたのです。 自分で自分を洗脳すること、 これを 自己洗脳 と呼びたいと思います。 カルトの指導者や虐待の加害者に依存していた時、 相手が言うことが非常識で常軌を逸していても、 自分が依存しているその人が間違いだと気づくことが怖いから、 無理やりそれを受け入れるための理屈を考えつき、自分で自分を説得します。 これが自己洗脳です。 自分で作り上げた説明は、自分の考えでもあるので、 自分の一部になっているはずです。 本当のことに目覚めるためには、自己洗脳に気がついて、 自分が自分を縛ってきた理屈から自由になろうと決意し、 自分の考えを点検することが必要です。 そのために、自分を見つめることです。 相手を責めるだけでおわらずに、 洗脳された自分自身の問題点を見つめてこそ、 洗脳から解放されていくと思います。 ( 提供 ) 種村トランスパーソナル研究所 メールアドレス : tanemura1956@gmail.com

吐き出しの注意点

心に溜まっていた秘密を隠さずに話すことを「吐き出し」と呼びますが、 吐き出しには注意が必要です。 吐き出しを勘違いして、何でも心に思いつくこと、 心に浮かんできたことを話せばいいと思っていると、 場合によっては害があるのです。 ただ湧いてくる思いを吐きだすだけですと、 自分や人を害する言葉がどんどん出て止まらないことがあるからです。 その人自身の言葉というよりは、のりうつりがその人を通じて 毒を吐いているような状態になることがあります。 それに気がついたら、いったん止めなければなりません。 話す側も聴く側も、のりうつりの毒を喰らい、 のりうつりに飲み込まれ操られる危険が生じるからです。 その人が自分の自身の葛藤や苦しみを語るのはいいのですが、 のりうつりがその人の意識に入り込んで話し始めると、とても危険です。 一例をあげると、 境界性の方には潜在意識との交流がしやすい方がいるのですが、 暗い気持ちにのりうつりの影が忍び込んできやすいので、 慎重にみぬいていくことが必要です。 常に警戒しながら、よく見極めようと意識して聴くことが大切です。 一つの判断材料は、話し手が被害を蒙るような内容か否かです。 のりうつりはその人が客観的に害を受けることや その人を貶(おとし)めること、自尊心を傷つけることを平気で話します。 聴き手がその人の言葉だと思って真に受けて応答すると 話し手は、その言葉に傷ついていたりします。 聴き手は、話し手が使った言葉をフィードバックしたにすぎないのに、 その言葉にひどく傷つけられたといって、あとで話し手が怒り出すのです。 自分が最初にその言葉を使ったことを忘れて、 相手が「自分を馬鹿にした、侮辱した」と憤慨します。 非常に理不尽ですが、のりうつりが話している場合は、 話し手は自分が言ったことを覚えていないことがあるようなのです。 ひょっとするとこのケースは多重人格だった可能性があり、 特殊な例ではあるのですが、注意するに越したことはありません。 また、のりうつりが話し手に入り込んで話している場合は、 聴いているだけで気分が悪くなってきます。 それを長く聞き過ぎると、聴き手も汚染されて心が濁って

思いの根っこに気づき話せば執着が取れる

「話す」ことは「放す」ことにつながると、前回述べました。(話すことの効果) しかし、これには条件があります。 自分が秘めて隠していたことを話すことは、確かに大変な必要です。 誰にも言えなかったことを話しただけで、重荷が下せるのは確かです。 そして自分を縛っていたエネルギーから、ある程度解放されるのも事実です。 しかし、一番大事なことは、 同じことを二度としない自分に変わる ことです。 そのためには、 なぜそれを自分がしたのか、 その奥にある思いは何だったのか。 それを発見して話すことです。 ここまで掘り下げないと、それをした自分の 思いの根っこ が残ってしまうので、何度でも同じことを繰り返す恐れがあります。 根っ子にある思いは、自分でも気がついていないことが多いです。 しかし、じっくりと思い返し、正直に話していくと必ず出てきます。 そこまで掘り下げて自分と向き合い、それを正直に話すなら、 暗いエネルギーを自分から切り離すことができます。 この時に自分がつかんでいた暗いエネルギーを、本当に放せるのです。 これが執着を手放すことです。 その時、今まで自分を突き動かしてきた暗い衝動が消えていることに気づきます。 それは本当に楽な状態です。 それこそが素(す)の自分だったのです。 その喜びを手にできるからこそ、自分を見つめるというつらい作業は、大きな価値があるのです。 ( 提供 ) 種村トランスパーソナル研究所 連絡先(メールアドレス) : tanemura1956@gmail.com

話すことの効果

カウンセリングは、なぜ必要性なのか? 経験的に感じるのは、やはり誰にも言えないような恥ずかしい自分を、否定せずに受容してもらい、さらに共感的に理解してもらうことが、心の重荷を降ろすためには不可欠だからだと思います。 自分の秘密を「 話す 」ということは、隠していたことを「 放す 」ことにつながります。 「話す」=「放す」 なのです。 さらに、「話す」は「 離す 」でもあります。 隠したいことというのは、恥ずかしい愚かで罪深い自分の行為や思いではないでしょうか。 それを誰にも言えずに隠している間は、常に心が苦しく、重荷を背負った状態です。 そのことを自分でも忘れている場合がありますが、潜在意識に押し込めているだけであり、決して消えてはいません。その証拠に、夢で出てきたり、無意識にその影響を受けておかしな行動をしがちです。 それを洗いざらい話す。つまり吐き出すと、心はそれから解放されます。 そのうえで、ありのままの自分を受け入れることができたら、そこからスタートすればいいのです。 自分が隠したい秘密を話すことは、とても怖いことです。 自分の名誉も、立場も、信頼も、大切な自己イメージも全部が傷つき失うような 恐怖 を伴います。 だから聴く側は、その人がとても怖い思いをしながら、勇気を振り絞って話そうとしていることを理解してあげる必要があります。 秘密を話すということは、心の奥に溜まったドロドロを吐き出すということです。 吐き出されたものは、もうその人自身ではなく、その人が自分の心から放したものです。 ドロドロがその人から離れたのです。 その人はやっと、ドロドロの呪縛から放たれたのです。 おめでとうと言ってあげたい瞬間です。 不思議なことに、すっかり吐き出し、その思いや行いの奥にあった思いにまで気づけると、どうしても取れなかった思いや衝動が、きれいに消えることがあります。 統御できなかった心が、統御可能な状態になります。 無意識下で起きていた衝動が消えるからです。 提供:種村トランスパーソナル研究所 連絡 ( メールアドレス ) : tanemura1956@gmail.com