2014年6月29日日曜日

人格障害④・・適応戦略の観点から



1.生き残るための適応戦略として

 
人格障害を「生き残りをかけた適応戦略の産物だ」と考える心理療法の理論があります。認知療法です。

 認知療法は、心的な過程(認識し理解し行動する)を情報処理としてとらえるのが特徴です。環境からの入力情報を、選択・統合して、行動とする情報処理の仕方には、人によってそれぞれ特有のパターンがあります。これをスキーマと呼びます。スキーマとは、人がこれまでの体験の中で発達させてきた物事の受け止め方(認知)や行動様式のパターンです。

人格障害を持った人は、通常は本人にとって過酷な家庭環境で成長します。そのため人格障害の人は、偏ったスキーマ(認知とそれに基づく行動様式のパターン)を身につけています。それは過酷で歪んだ環境で生き残るために身につけたプログラムです。これは幼い時には生き残るために有効(適応的)でした。

しかし、新しい環境の中では、そのプログラム(スキーマ)は現実にそぐわない、適応するうえで不利な信念や行動戦略(方略)となってしまっています。しかし本人は過去に身につけたプログラムを変えられなくて、不適応を起こし苦しんでいるのです。これが人格障害です。
 

2.不適応な信念

 
 人格障害の人は、それそれ固有の特徴的な信念と行動様式を持っています。その一例を紹介します。
 

 自己愛性人格障害の人は、「自分は特別であるから、特別扱いされなければならない」「自分は優れているから、人はそのことを認めねばならない」という信念を持っています。その信念に基づいて自分が優れていることを証明することに、命を燃やします。優秀性証明願望に憑りつかれます。

 
 境界性人格障害の人は、「自分は価値のない人間だから、みんな見捨てるだろう」という信念を持っています。そのため見捨てられることを恐れて、死に物狂いにしがみつこうとします。その結果、相手は過重負担になり、結局は当人の恐れていた結果を招きます。

 
 演技性人格障害の人は、「人から注目されなければ、私は無価値になる」という信念をもっています。その偏った信念に基づいて、誰かれかまわず気を引くような行動をとったり、貴族の末裔であるとか、同情を引く不幸な生い立ちを、まことしやかに、でっち上げてしまいます。

 
 反社会的人格障害(サイコパス)の人は、「私は侵略者でなければならない。さもないと私の方が犠牲者になってしまう」「他人は搾取的であるから、私には彼らを搾取し返す資格がある」という信念を持っています。その信念の元に、暴力的で犯罪的な行為をする人と、言葉巧みに他人を操って搾取する巧妙なペテン師になる人の二通りの行動パターンに別れます。

 
 人格障害ごとに、こうした歪んだ信念や行動様式があるため、それをまず見抜くとともに、どういう過程で形成されてきたのかを、共感的に理解することが大切です。

 その人にとってそれは、幼少期を生き残るために身につけた生存戦略なのです。もしくは幼かった頃に、満たされなかった欲求を、紛らわすために不適切に身につけてしまったものなのです。

 人格障害の人に、どことなく子供っぽさを感じるのは、彼らが「子供時代の課題を乗り越えておらす、大人になっても、子どものような行動をとってしまう」(岡田尊司著『パーソナリティ障害』)ためです。

したがって、まず過酷で歪んだ生い立ちの過程で身につけた認知(受け止め方)と歪んだ信念や偏った行動様式が、すでに不適応なものとなっていることを受け入れて、これをより適応的なものへと修正しようと努力することが不可欠です。それは子供時代に未解決だった、成し遂げるべき課題を達成して、次の成長の段階へと進むことでもあるのです。
 
人格障害⑤その原因
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2014年6月28日土曜日

人格障害③…幼い自我と躁的防衛



1.幼い自我への退行と回復

 
 私たちは子どもの頃から、困難な事態に遭遇した時に、次のどちらかの態度をとります。

a)失敗したり叱られて、ふさぎ込み、自分の無力や非を認めて、落ち込む。

b)思い通りにならないとき、それを周囲のせいにして、欲望を満たしてくれない周囲を悪者にして、その悪者に対して敵対したり攻撃したりする。

 
 前者(a)は自己責任を認めますが、後者は全部他人が悪いとして絶罰的になります。これは、自我がまだ未熟な状態です。

 子どもが後者(b)の状態のときは、いつもの優しい母親のイメージが消え、目の前の「悪い母親」しか目に入らず、「死でしまえ」「だいっ嫌い」と本気で悪態をつきます。この子にとっては、欲求を満たしてくれるときは「よい母親」で、そうでない時は「悪い母親」であり、母親像が分裂しています。これは通常は授乳期に似られる状態で、未熟な状態です。

それが通常であれば、抑うつ的な段階を経て、次第に自我が成長していきます。

 
 見かけは大人であっても、自我が未熟な状態にとどまっていると、後者(b)が出てきやすくなります。そのために人格障害では、しばしばこの幼い自我の状態に退行します。そして、思い通りにならない相手を悪い人だと決めつけて、不利な状況を、自分ではなく相手や周囲のせいにしてしまうのです。
 

 「自己愛」が傷ついた状態(人格障害)の人は、相手が悪いと思うと、その相手の悪い側面を、まるでその人の全てであるかのように見て否定します。その人には、とても親切な良い側面があることを忘れてしまうのです。そして、一方的に相手を責めて、自分を振り返ろうとしません。これはとても未熟な心理状態です。

 これが成熟してくる過程では、人は自分の責任を自覚します。その為に一度は抑うつ的(a)になります。そして悲哀や罪悪感を味わいます。これを「悲嘆の過程」といいます。

 人格障害の人が回復にむかうときは、この「悲嘆の過程」を通過します。そして自分の嫌な側面や行い、自分に降りかかった哀しい出来事に向き合い、その事実を受け入れます。これは自分に向き合い、失われたものに対する「喪の作業」をするのです。

 こういう過程を経て心が成長すると、相手をよい面と悪い面の両方がある存在としてあるがままに受け止め、「全体としての相手」とつながりを回復することができます。これが成熟した姿です。
 

2.弱い自我の防衛である「躁的防衛」
 

 人のせいにして周りを攻撃していた状態から、自分が悪いことに気がついて落ち込む抑うつの状態になるのは、とてもつらいことです。そのつらさに耐えるだけの力が自我にない場合、しばしば自分を守るために、ある手段を講じます。それが「躁的防衛」と呼ばれるものです。

 躁的防衛は、一言でいうと、「幼く、非現実的な万能感を抱くことで、自らの無力さ、後悔に打ちひしがれることから、自分を守ろうとする」心の働きです。

 躁的防衛は、支配感、征服感、軽蔑という、3つの感情に特徴づけられると言われています。この躁的防衛で現実を否認したり、回避する場合、現実と向き合えなくなり、妄想の世界に浸り、その結果、健全な心の成長を妨げます。
 

 心が成長するためには、自分の問題点や厳しい現実を向き合うこと(対決)が不可欠です。抑うつ状態とは、失われたり、しくじった悲しみに向かい合っている状態です。その時に失敗を素直に受け止めて、そこから学ぶことを通して人は成長し、抑うつ状態から抜け出します。

 ところが、ここで躁的防衛をしてしまい、抑うつを避け、失敗の悲しみに向かい合うことを避けると、こうした成長がおこらなくなります。
 

 その結果、人格障害の人は、同じ失敗を繰り返します。それでも気がつかないのは、躁的防衛になったり、悪いのは相手で自分意は責任はないと考える未熟な自我状態(b)に退行することで、自分の問題に向き合うことを避け続けるからです。

 自分の問題に向き合うことをしない限り、人は成長できません。心が成長し、人格が成熟するには、現実をありのままに見つめ、逃げずに向き合うことが、絶対に必要であるということを知っていただきたいと思います。

人格障害④適応戦略の視点から
 http://tanemura2013.blogspot.jp/2014/06/blog-post_29.html

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2014年6月27日金曜日

人格障害②…自己愛の障害




人格障害は自己愛の障害である

 
 人格障害は自己愛」の障害です。「自己愛」には様々な意味がありますが、一番大切なのは「自己愛」は「自分を大切にする能力」だという意味です。人格障害の方は、「自分を大切にする能力」が傷ついて、そこに障害を抱えているのです。

 「自分を大切にする能力」はいちばん基本的な能力です。これがあるから、人は自殺せずに、自暴自棄にならずにより良い人生を生きようと努力できるのです。ところが不幸にして「自分を大切にする能力」としての「自己愛」が適切に育っていないと、自分を大切にできないのです。

 人格障害の特徴である、自分へのこだわり(執着)、傷つきやすさ、信頼したり愛することの障害、そして無かの思考は、自己愛の障害によって生じ、増幅されたものです。言い換えると幼い自己愛に支配されているのです。
 

 たとえば、強い自己否定の感情に苦しむ人がいます(境界性人格障害)。これは「自己愛」が損なわれている証拠です。そうかと思うと、傷つきやすさや弱さを補おうと、「自己愛」が過剰に膨れ上がっていくタイプの人もいます(自己愛性人格障害)。

 実は自己愛性人格障害と境界性人格障害は、自己愛の障害の裏表の両面なのです。競争に勝ち抜いて自信たっぷりに振舞うことは「自己愛型防衛」と言われています。そういう態度をとることで、不安や欠点を見せないように防衛するのですが、それが成功すれば自己愛性人格障害に、破たんすると境界性人格障害に陥ることがあります。状況次第でどちらにも移行するわけです。

 
 実はさまざまなタイプの人格障害は、傷つきやすい自己愛のさまざまな防衛の形態であるといえます。そしてそれが失敗すると、境界性人格障害の様相を呈するようになるのです。

人格障害③幼い自我と躁的防衛
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2014年6月26日木曜日

人格障害①・・・基本的特徴



1.人格障害とは何か
 

カウンセリングで対人関係の苦しみを訴える人の話を聞いていると、相手の方に人格障害が疑われる場合が少なくありません。

 そこで人格障害についてできるだけ簡潔に知識を持っていただくことが必要だと思うようになりました。

人格障害について知識を提供することで、多くの方に問題解決の糸口をつかんでいただければ幸いです。


人格障害とはわかりやすく言うと「人格の著しい偏りのために、自分自身が悩むか、社会が悩むもの」(人格障害の元の概念である「精神病質」の定義)といえます。
これを現代的に言うと、人格障害は、日常生活や社会生活に支障をきたすほどに、「著しく偏った、内的体験及び行動」を持続的に示す状態ということになります。

つまり人格障害の人は、認知と行動に極端な偏りがあるのです
人を信じるということについても、極度に疑り深いので伴侶も友人も信用できず、いつも裏切るのではないかと疑ってしまうタイプ(妄想性人格障害)がいます。
そうかと思うと、自分に自信がなくて、すぐに人を信じてしまい、相手にいいように利用されてしまうタイプ(依存性人格障害)もいます。
どちらもほどよい信頼と冷静さに欠けています。


2.人格障害に共通する特徴

 人格障害は米国精神医学会編『DSM-Ⅳ 精神疾患の分類と診断の手引き』に取り上げられているものだけでも10種類あります。これらの人格障害には、共通する次のような特徴があります。

  自分に強いこだわりも持っている。

人格障害の人は、すごく自分にとらわれています。つまり自分への執着が強いのです。その「とらわれ」は、一見正反対の現れ方をすることもあります。

・過剰な自信を持ち自慢好きである(自己愛性人格障害)

・自分は存在する価値もないという劣等感や自己否定をもつ(境界性人格障害)

 この両者は、どちらも自分へのこだわりが強く、自分のことばかり考えます。

  とても傷つきやすい。
 

 人の些細な一言を攻撃と受け取ったり、馬鹿にされたと思いこんでしまいます。しかも過剰に反応して、急に怒りだしたり、ふさぎ込んだりするのです。
 好意で注意したことを根に持って逆恨みするタイプ(妄想性人格障害)もあれば、反撃に出て暴力事件を起こすタイプ(反社会性人格障害)もあります。

いずれもその奥には、心の傷つきやすさを抱えています。

  全か無か、の両極端の思考をしやすい。
 

 人格障害の人の思考は中間がありません。完全に素晴らしいか、まったく駄目かのどちらかしかないのです。これを「全か無か(オール・オア・ナッシング)」の思考といいます。

・自分の決めた通りにやれないのなら、やらない方がましだ(強迫性人格障害)

・どうせ嫌われるなら付き合わないほうがましだ(回避性人格障害)

・恋人に少し冷たいそぶりをされただけで、「捨てられるぐらいなら死んだ方がましだ」と思って自殺企図する(境界性人格障害)

  愛すること、信じることの障害

 人格障害の人は、人と本当につながることができにくい。見かけはつながっているように見えても、実は上辺だけだったり、演じているだけだったり、かりそめのものだったりします。

 本当に人を愛し、信じることに困難を感じるのです。

 以上の4つが全部そろっていれば、その人は人格障害を持っていると判断してほぼ間違いがないといえます。

人格障害②自己愛の障害
http://tanemura2013.blogspot.jp/2014/06/blog-post_27.html

境界性パーソナリティ障害①
http://tanemura2013.blogspot.jp/2014/11/blog-post_40.html

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2014年6月25日水曜日

(投稿)息子との対話・・・自由の意味について


(紹介)「大」さんは息子さんとのスマホゲームを巡るやり取りの中で、自由の意味について議論されたようです。日常の中の親子関係。特に父親は思春期以降の息子に対して、社会に通用する価値観を教えてあげる必要があります。息子との心の対決を通して、それは伝わっていくものだと思います。父親として逃げていない姿勢に共感を持ちました。(種村)

(投稿)

1.自由を奪うのか
長男の期末テストの結果が返ってきました。
予想に反して、悪い結果でした。
本人は、毎度のテスト後の決まり文句で,「今日から心を入れ替えて頑張るよ。」といって、勉強を始めました。
「問題がないから、問題を作って。」と行ってきたので、ネットで適当な数学の問題をダウンロードしてあげました。
30分ほどしないうちに、「ちょっと休憩」といって、スマホをいじり始めました。
「もう終わりなの」という私の言葉に、「少し休憩だから、もう少ししたらやるよ。」とのこと。
私も自分の仕事をするために、別の部屋に行って、小一時間して戻ってみると、妻がかなり不満げな様子。長男は、ソファーで寝てしまっていました。
「いくら言ってもやらないし、結局そのまま寝ちゃった。しつこく言うと、なんで自由を奪うの?と文句を言われた。」と言っていた様子。
朝になって、長男に昨日の様子を話すと、長男は、「それよりも、スマホにゲームをダウンロードしてくれない?」と言ってきました。
当然のごとく、断固として断ると、「なんで、自由を奪うの?」と一言。
この言葉は、長男が自分の意志が通らないと、必ず発する言葉でした。スマホは、電話やメールをするために買ったから、ゲームはダウンロードさせない、と一貫して長男には伝えてきました。
いろいろと理由をつけて、ゲームをダウンロードするように主張してくるのですが、こちらは一貫してノーの一言。すると、いつものように、「なんで、いつもそうやって自由を奪うの?」の決まり文句。
 
2.自由を与える

そんな長男に言いました。

自由を奪ってるんじゃないよ。自由を与えてあげているんだよ。それも、将来に向かってのね。
君の言っている自由ってのは何だい?
自由って言うのはね、選択肢が増えていくっていうことなんだよ。
今回の期末テストで、このままいったら、自分が入りたい学校になんか入れないということがわかったよね。そういうことなのに、また懲りずに、ゲームをダウンロードして勉強をおろそかにしようとしている。いつまで、こんなことを繰り返すの?
それとね、選択肢にはレベルってものがあるんだよ。
ゲームをする自由、行きたい学校に行ける自由。同じ自由だけど、どちらの方が価値があるの?
今、ゲームをする自由を奪っているけど、それは、将来の自分の行きたい高校に行く自由を与えているということなんだよ。今の選択肢を奪っているということは、将来の選択肢を増やしてあげようと思ってのことなんだ。それがわからないかい?
今、君に自由を与えると言うことは、別の意味で、君の自由を奪ってしまうことになるんだ。
将来の自由を得るのに、今の自由を制限するかどうかは、君の「自由」だ。自由にはそれぞれ価値のレベルがあるから、より高い価値のある「自由」を得ることが一番賢明だと思うよ。

自分の人生だって、目の前の「自由」に心奪われ続けた結果、今の「自由」がかなり制限された状況になってしまいました。もう少し努力しておくべきだったという後悔が消えることはないでしょう。
そうした自分の人生において、「失敗からの教訓」を得ることができました。

3.賢者と愚者の違い

長男には、絶対に自分と同じような失敗をして欲しくないという気持ちがあります。そういう思いが強いだけに、長男の現状をみていると、いたたまれなくなります。

長男には、このようにも言いました。
 
 人生には失敗から学ぶこともある。しかしながら、
賢い人というのは、人の経験(失敗)を、自分の人生に教訓として生かすことができる人だ。
凡人というのは、自分が失敗し、痛い思いをして、そこで初めて気づく人だ。
愚人というのは、何度失敗しても、懲りずに同じ過ちを繰り返す人だ。

教育には忍耐が必要と言われます。確かにその通りです。
親にとって、限りない「信頼」と「忍耐」が試される場です。
しかし、それも親としての「修行」でありましょう。
互いに学びあい、磨きあいながら生きている。
それが「親子」というもの。「家族」というものかもしれません。

2014年6月12日木曜日

(投稿)未来を創る7  心の統御


(コメント)これは準カウンセラーの「大」さんが、自らの心の井戸をほって汲み取った「心の統御」についての思想です。心の成長を志す人にとっては、非常に大きな示唆を与えてくれる内容だと思います。(種村)

 
(投稿)

道を開く鍵
 
道を開くカギは、心の統御にある
心を知ることが、心をコントロールすることにつながる
心をコントロールするということは、心を他人に明け渡さないことを意味する
心を自己管理の下に置くことを意味する

心を知るということは、意識とは何かを知ることにある
心を深く洞察し、意識を「客観的に」つかんでいくことだ
意識とは何かを知ることは、すなわち
自分の運命をコントロールできるということにつながっていく
自分の運命は自らが形作っている
自分の意識とは何かを知ることは、
自らの運命を自らの手で形づくることができる、ということだ
それは決して特別なことではなく
ごく当然にそうである、ということだ
要は、自らでコントロールできるかできないかの問題でしかない

ゆえに、未来を創るには、自らを知るということが大前提となる
自己を統御し、己の心を知ることに努めることだ

己の心を知るための「航海」に出航しなければならない
もう後戻りすることはできない
ただ目的地を目指して進むすかない、ということを知ることだ
後戻りする意味もないのだから、
もう、覚悟を固めるしかない」ということだ(大)

2014年6月5日木曜日

(投稿)未来を創る6  過去の清算



深層潜在意識の浄化

(コメント)

「大」さんはカウンセリングの過程で、深層潜在意識にある過去世の記憶がいくつか蘇ってこられました。それは強い情動を伴った記憶でした。どうやら過去世の記憶に迫害された経験の記憶がいくつかあり、それが彼の心を消極性、不安、自己信頼の欠如へと引っ張っていることが感じられてきました。もっとも彼の深層潜在意識にはこの対極ともいうべき智慧や繁栄の意識があり、それもカウンセリングの過程で姿を顕わしています。自分が望む未来を創造するには、そうした過去世の心の傷を癒し、本来持っているよきものを掘り起こす作業も必要な場合があることを、「大」さんの事例は教えてくれています。(種村)

 
(投稿)

過去世の記憶

私の過去世には,神を信じることへの試しという経験があったように感じます。神の教えを伝え広めたが,最終的には迫害にあって非業の死を遂げた,といった体験を,私の魂は幾度かしてきたようです。

1つは,日本での隠れキリシタンの踏み絵に代表される迫害,
さらに,古代(もしくは中世)ヨーロッパの宗教迫害
そして,預言を伝えていたときの迫害
このほかにもあるかもしれませんが,いくつかの迫害された過去を持っているように感じました。

たとえば,迫害を受けても,キリストを信じて殉教に身を投じることこそ尊いことであるという概念があります。そうであってこそ,死後に神近きところに行くことができるということで,キリストの後を追うように迫害を恐れずに殉教する聖者が過去におりました。彼らの尊い精神があったからこそ,キリスト教が世界に広がっていったのでしょう。

それに対して,私の過去世の場合は,全く逆のものでした。迫害された結果、神を信じることができなくなり,不安と恐怖に支配されながら,非業の死を遂げていった。
中世の時代には,兵士につかまり,引きずられながら,胸を刺されて死んでいった。
日本の迫害の時代には,踏み絵を踏んだ。
これには相当深い心の傷が残ったのでしょう。刺された部分は,今世の私の肉体にも炎症が出ていますし,右足には,いまだ踏み絵を踏んだ感覚が残っています。

そして,人を幸せにするつもりが,逆に不幸にさせてしまったという思いは,深く自分の心の傷として残ってしまいました。
自分を縁として,相手が不幸になってしまうのではないか,という不安が,いつも自分の中にあります。そして相手に不幸な事件が起きてしまったとき,「自分が原因でそのような不幸にみまわれたのではないか」,といった思いが反射的に湧いてきます。まさしく自分が不幸の発信源であるかの様な感覚に見舞われます。

ただ,その当時の自分というものは,とても純粋であって,「人を幸福にすることにしたい」という真剣で一途な思いがあったようです。生い立ちもあまり幸せでなかったのかもしれませんが,教えを通して人々が幸せになり,暗く沈み切っていた顔が笑顔で明るくなる,絶望に沈んでいた人々の心に希望の光が灯る,そうしたことに命をかけていたようでありました。
そのあと迫害にあって,多くの人々が不幸な目に見舞われる様子を見て,とても耐えきれなくなったのでしょう。自分の力のなさを恨み,唯一信じていたものに裏切られたような感覚に陥り,心の支えを一気に失ってしまったことによって,不安や恐怖に支配されやすくなってしまったといえます。

試練の意味
理想的な死に方(?)としては,殉教者のように,神を信じて自ら身を投じるということであるのかもしれません。迫害を恐れず,自ら神の前に身を捧げるという行為は,キリスト信者にとって,自らの信仰を証明する大いなる試金石としてあるのかもしれません。

そして,そんなことにも関せず,深い失望と挫折の中で死んでいった自分は,信仰の試しに屈して,地獄に落ちて行ったのかといえば,そうではなかったようです。確かに成功ではなかった。理想ではなかったが,失敗でもなかったといえると感じます。

それは,「多くの人々の幸せを願って生きていた」という行為があったからであり,神を恨んだのも,不幸になった人々のことを思うあまりのことであったからではないかと感じます。

ただ,同じような体験をさせられるというもの,そこに克服しなかればならない修行課題があるからであり,そこで何を学びとっていくか,という問いに対する答えを導き出さねばなりません。

殉教という生き方もある意味で理想ではあるのかもしれませんが,真なる意味で,本当の理想ではないと感じます。その殉教の歴史が,その宗教を広めていく原動力になっていることは確かですが,確実にその宗教に「暗い影」を落としているということも事実であるからです。真実を守るという意味で大変崇高な行為ではあることは確かですが,必要ではあるが理想ではないという感覚が私の中にはあります。それは,自分の過去世における歴史の中にその答えを見つけ出していかなくてはならないと感じています。

未来を創るために,過去の清算をしていかねばなりません。過去に起こったことが未来に暗い影を落としているとしたら,過去の暗い影を消し去り,明るくしていかねばなりません。
過去との対決は,これからも続いていくでしょう。しかしながら,これもサムジング・グレイからいただいた贈り物でしょう。無駄なものは何一つありません。貝が自分の中に入った異物を真珠に変えていくように,自らに与えられた試練を,光り輝く宝石に変えていくことが大切なのだと思っています。 (大)

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