2014年1月27日月曜日

(投稿)修行の途中に見えたもの


垂直にそびえ立つ岩山を登っていく
足場に気をつけながら、少しづつ着実に登っていく
時折、足を踏み外して、ズルズルと下に落ちてしまう
登る時はゆっくりだが、落ちるときはアッという間だ
それでも何とか途中で踏み止まり、再びゆっくりと登っていく
頂上は雲の上に隠れていて、見ることはできない

こんなことをして何になるのだろうか
ふもとでは、たくさんの食べ物と娯楽であふれている
こんな辛いことに身をまかせるより、いっそのこと楽になろうか
そんな思いが、しばしばよぎっていく
手元にあるのは、わずかばかりの水と食料
ふもとにいた頃の、楽しかった思い出が、ふと頭をよぎる
それでも、上も向いて、ひたすらゆっくりと登りはじめる
ふもとから聞こえてくる楽しそうな笑い声を耳にしながら

いつしか暗かった夜が明ける
上を見れば、未だ頂上は雲に隠れたまま
下をみると、町が小さく見える
まわりを見ると、広々とした草原と果てしなく続く海が、目の前に広がっている
町の中にいたのであれば、決して見ることのできなかった光景だ
ああ、あれほど自分の住んでいた町、あれほど大きく感じた町が、あれほど小さく見えるとは
この町が全てであったと感じたものが、大いなる世界の中の、ほんのわずかな一部にすぎなかったとは
あの、小さな世界の中で、ずっと自分は生きてきた
喜びも悲しみも、あの小さな世界の中で・・・

そして再び上を見る
そして、まだ続くであろう果てしなき道を、ただひたすらと登りはじめる
そう、命の続く限り・・・ (大)


<連絡先>
種村トランスパーソナル研究所
所長兼心理カウンセラー 種村修
電話090-8051-8198
メールアドレス:tanemura1956@gmail.com

2014年1月26日日曜日

(投稿)魔境について(2)



(前回から続く)

2.魔境を見抜く

この「自己否定の感情」というものは、まさしく自分にとっての「魔境」であった。
反省によって、マイナスの感情が膨大するのであれば、それは正しく自己を見つめているということにはならない
心の塵や垢を落として、本来の光り輝く自分を発見することが反省行の基本であるから。

反省によって、闇の部分が増大したということは、自分の本質は何の価値もないガラクタ同然のものであるということになる。
そのようなことは決してありえない。

反省行をする際の注意点として、自己処罰的な反省をしてはならないということがある。
そうではなく、あくまで客観的な第三者的な立場に立って、自己を見つめていかないといけないということである。
しかしながら、そうではなくても、心の「クセ」に気づかないがために、客観的に見ているつもりが、この「クセ」に引きずられてしまい、全く客観的に見えていないということがある、ということを知った。

それは、いわゆる「魔境」といわれるところで起きてくる。
この「魔境」を乗り越えるには、心の「クセ」をさらに客観的に見るほどの見方が必要だ。
もしくは、この心の「クセ」を適切に指摘してくれるだけの導師があればありがたい。
さらにこれらを乗り越えていくだけの、心のパワーも必要となってくる。
わかってはいるけど、目の前の壁に心が折れてしまう、といったように・・・

そして、この「クセ」によって、また魔境のワナにとらわれるところであったことに気付いた。
しかしながら、まだこの「魔境」を跳ね返すだけの心のパワーを自分は持ちえていない・・・。

自己との戦い」はまだこれからも続くだろう。
ただ、自分が戦うための武器というのは今までと同じである。
「ひたすら客観的な第三者的な立場に立って、自己を見つめていく」のみ。
それにもう一つ付け加えるとするならば、
自分の奥には、無限の価値を持ったダイヤモンドが存在する」ということ。

自分を信じて、ただひたすら歩み続けていく。
それが、たとえ亀のごときであっても、
ただただ一歩づつ歩んでいく。
自らの信じる道を、ただただ歩み続けるのみ 。(大)


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2014年1月24日金曜日

(投稿)魔境について(1)



1.葛藤する二つの想い


反省というものは、つくづく難しいものだ、と思う。
あくまでも客観的にみる、ということが、本当に「客観的に」見ているかということさえ、疑問に思えることすらある。

自己評価の低さ、これが長年にわたって自分を苦しませてきた傾向性であった
ある程度までは原因を掘り下げ見ることはできていたが、根本的な解決にはいたらなかった。
まだまだ自己探求が足りないと、反省行を続けてきた。

自己との対話を続ける中で、ふと、ある考えが浮かんできた。
自分はただ、優秀な存在、特別な存在になりたいだけなんだ・・・。」
しかし、到底そのような存在にはなりえない。
そうして、この特別になりたいという思いを打ち消すかのように、自己否定の思いが存在している
そしてこの2つの思いが常々、心の中で、意識的にあるいは無意識的に葛藤を繰り返している。

その逆も考えられなくもない。
つまり、「自己否定の思い」を否定するように、特別な存在になりたがる。
いずれにせよ、これらの2つの感情が同居していることは確かでありそうだ。

そうであるならば、自分は「価値のない自分である」と自己認識していることになる。
それは、「他と比較して」、価値の低い自分でもあるということ。
世の中に輝く一点の星としての存在ではなく、群衆に紛れてしまえば見えなくなってしまうほどの、全人口分の1程度としての自分・・・。

そう思い至ったとき、心の中に、黒い幕をかぶせられた感覚をおぼえた。
今までの自分がやってきたこと、自己との対話を通じて積み上げてきたことが、まるで妄想であったかのように思えてきた。

そう、結局は妄想にすぎなかったのだ。
自分にそのような使命などあるはずもない。
自分は何の価値もない、ただ一人の人間にすぎない。
ただ人ひとり分としての価値しか持ちえない。

自分の存在、そして使命というものを全否定したくなる感情に襲われた。
とうてい、自分に使命や価値など見出すことができなくなってしまった。

ただ、その奥にひたすら冷静になって、心の動きを観察している自分がいた。
心境の流れの行く末を、じっと見つめているようであった。

自己否定の感情」は、今まで自分を苦しめてきた。
反省行によって自分の心を見つめていたが、結局として自己否定の感情が膨大することになった。
はたして、本当に客観的に自己の心を見つめていたのであろうか。
そのように、自分の奥の意識が私に訴えかけてきているようであった。(次回に続く・大)

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2014年1月23日木曜日

(投稿)反省行について



 反省行をすれば心の塵や垢が取れて、心が清らかになる。ただし、正しい「反省」を行えばの話であるが・・。
 反省をするときに、自分の犯した罪に対して、自分を責めてはいけない。その行為そのものを第三者の立場に立って冷静に分析しなければいけない。

 こうしたことに注意しながら、反省行を行っていたはずでした。しかしながら、そうではあっても、いつの間にか自分を責めていることに気付かないでいる自分を発見することがあります。その人特有の思考のパターンというのがあって、自分でも気付かないうちに、そのパターンにはまっていることも良くあります。それほど、第三者の立場に立つというのは難しいものがあります。

 この自分の心を客観的に見つめてみる作業というのは、やはり訓練が必要であると思います。私の場合は、仕事や日常生活の中で、何年にもわたり、この訓練を続けてきました。その結果、大きな心境のブレというのは少なくなってきたように感じます。自らを客観視する姿勢というのは、あらゆる場面で自分の心を守ってくれるものと確信するに到りました。

 たとえば、仕事の中で起こった不具合やトラブルなどが生じたとき、そこには処理能力レベルの問題の他にも、そこに至った原因やそのトラブルを通じて自分が行った行為や心の動きなど、自分の「反省して修正すべき部分」が現れてきます。それらのことを、まさしく「第三者の立場」で見つめることで、座禅を組みながら反省をする時と同じ、もしくはそれ以上の効果が現れてくるものと思います。特に、その場で自分の心の動きを見つめることができます。こうしたことを習慣化することで、常に自分の心を見つめるという習慣を確立することができます。
 これらのことは、多くの方が多かれ少なかれ行っていることと思いますが、さらに「修行」として意識的に行うことで、より深い自己洞察が可能になってくると思います。

 最近、「反省行」をしているときに、自分を全否定したくなるような心境に陥いりかけましたが、先ほど触れたような自己洞察が「習慣化」されていたおかげで、大きな心境のブレを最小限に抑えることができました。常に客観的に自己を見つめるということは、こうした反省行のみならず、日常生活の中でも、心を平静に保つ、もしくは心のブレを素早く抑える大きな役目を果たしうるものであると思います。

 「反省行」として、わざわざ時間を取って座禅しなくても、日常生活の中で常に意識して、自分の心の流れを観察するだけでも、りっぱな「修行」であると思います。

 先日テレビで、とても効果的なダイエットとして、日常意識的に、腹筋を使っておなかを出したり引っ込めたりするという方法を紹介していました。歩いているときや仕事をしているとき、日常生活の中で、朝起きてから寝るまで意識しておなかの運動を繰り返してやるというもので、最初は苦しいのですが、そのうち意識しなくても、この運動が習慣化されていき、苦しくなくなるとのことでした。これだと、特に食事制限もなく、効果的におなか周りの脂肪をとることができ、大きなダイエット効果が得られるというものでした。
 結局のところ、これと似たようなところがあるのかもしれません。気付いていたら、自分の心を冷静に客観視する自分がいた、ということになれば、とても素晴らしいことではないかと思います。(大)


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2014年1月22日水曜日

命の炎を燃やせ②-心を浄化する(2)



(前回から続く)

3.影の統合

私達は誰でも、「自分はこういうひとだ」という自己概念や、社会的な立場から「私はこういう人間だ」というペルソナ(仮面)と言われるものを持っています。それに合致しない思いは、否定して、なかったことにしてしまおうと無意識的に拒否したり、自分でも受け入れられるような解釈に歪曲してしまいます。

例えば、人を呪詛して呪い殺したいという思いが湧くことがあると、そんな恐ろしい自分を認めたくないので、それは私ではないと意識が否定するのが普通です。でも、殺したいほど人を憎んだことがないかと言われれば、そういえばあの時にそういう思いを出した自分があったと、気が付く場合があります。この場合、人を呪詛する心があるわけです。そういう自分があるということを認めるのが「潔く自分を受け入れる」ということです。これが自分だと認めることができると、それをコントロールしたり、どうしてそう思ったのかという原因を考え、修正し、そういう思いをコントロールすることはできます。

その時に、大切なことは、そういう嫌な自分を発見したら、それによって自分を責めたり、裁いたりしないということです。それは自分がそこから何かを学ぶ為に経験したことであり、そこで学んだ教訓を生かして、過ちを犯さない自分に変わればいいのです。決して裁かない心を持って、そうせざるを得なかった自分自身を受け入れるのです。その時には苦しみや悲しみや、そうせざるを得なかった事情があるはずです。それを受け入れ、丁寧にその時に起きた自分の感情や思考を辿っていくのです。そして、ここから出発しようと自分自身を受け入れるのです。

受け入れるとは肯定や正当化ではありません。自分を振り返り、「そこから何を学んだのですか」と自分に問いかけて、同じ状況が出ても、二度と同じことをしない自分になれるように思考や傾向性を修正するのです。

これを「自分に向き合う」とか「対決」と言います。特に自分自身に特徴的なマイナスの思いは「影」と呼ばれ、心を浄化していくプロセスでは影との対決は避けては通れません。その際に一番難しいのは、その影は自分自身であることを認めて受け入れることなのです。その時に、影は自分にとって必要なエネルギーとして、自分を害さない何かに変化します。これを統合の作業というのですが、影は自分の意識に統合されると、個性を支えるエネルギーとして働くようになります。

 
4.私の体験

以上が自己浄化のプロセスですが、私たちは自分の過去の人生の中で、さまざまに抑圧して封印している思いや行いがあります。

私にはこんな嫌な思い出があります。小学2、3年生ごろだったと思うのですが、学年が一年上の隣の男の子と一緒に、野良犬が産んだ赤ちゃんの犬をかわいがっていました。本当は飼いたいと思ったのですが、親には絶対にダメだと言われていました。その日は水田の水が表面が凍るほど寒い日でした。私とその友人は、子犬を持て余しました。どこまでもついてきて離れようとしないからです。困ってしまって、氷の張っている水田に子犬を投げ込みました。するとその子犬は悲しそうに鳴きながら私たちのいる土手に戻ってくるのです。パニックになって、その子犬を何度も何度も水田に投げ込んで、結局寒さと疲労と、投げつけられた衝撃でぐったり来て、死んでしまいました。私たちは、さらにパニックになり、その子犬を近所の家の片隅に横たえて逃げました。途中で、その家の人に呼び止められたのですが、しらを切って逃げました。

私はこの体験をずっと封印してきました。しかし、何度も何度も思い出されるのです。そこで私は潔く受け入れることにしました。そして告白しました。

「私は冷血漢で、自分本位で、動物虐待するような心が確かにありました。自分が飼えないのになついてくる子犬を持て余して、殺してしまうような残酷で自分本位の心がありました。それをすごく後悔しています。」そう告白できました。

その時に、私はやっと自分がこの記憶から解放されたことを知りました。子犬が生き返って、しっぽを振りながら嬉しそうに私にじゃれてくるのをイメージできるようになりました。それと同時に私は気が付きました。「虐待そのものは、もうその後していないかもしれない。しかし、自分の都合で家内を無視して仕事ばかりして孤独な思いをさせたりして、自分本位の冷血漢な自分があった」と気が付いたのです。そして同じことをしないように、戒めるようになりました。

こうした作業を、一つ一つしていったときに、私たちの心は浄化され、軽く清らかとなり、本当の自己ともつながりが回復できるようになります。そして自分自身を受け入れ、愛することができるようになるのです。(種村)

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2014年1月21日火曜日

命の炎を燃やせ②-心を浄化する(1)



1.反省ということ

心の浄化において、一番大切なのは反省ということです。自分が過去において行い思い語ったことが、他者の視点から見たときに、その他者を苦しめなかったかどうか。また自分自身を傷つけたりすることがなかったかどうか。この二つを点検して、自分自身を振り返り、過ちがあればその原因を探り、修正してゆく行為が反省です。

 これは生涯に何度か振り返ってみる必要があると思います。というのは、その時点では良かれと思い正しいと信じて行った事でも、時間を経て振り返ると誤っていた点が見えてくることがあるからです。

ある宗教に入り、知り合いを勧誘していた人が、その時は善意のみで行動していたとしても、その宗教自体が間違ったものであったと気が付く場合があります。この場合は、その宗教を勧めた自分の判断が誤っていたことを素直に認め、どこがまちがっていたのか、その宗教のどのような汚れを身につけてしまったのかをつぶさに見つめ反省することは、とても重要です。そして過去の過ちを償う行為が必要になると思います。

 これは会社でもそうです。どの会社にも固有の価値観や行動原理があるものです。たとえば成果次第で高収益になるような営業会社の場合、顧客の利益にはならないことを知りながら、平気でうそをついたり、過大な宣伝をして商品を売る場合もあります。その場合、その会社には、相手を騙すことを正当化するような論理があるのが普通です。生活のためとはいえ、それを自分の価値観や行動原理の一部として取り入れてしまうと、毒水を飲み続けることになります。やはりきちんと過去を反省し、どこがなぜ間違っていたのか。それに染まったのはどうしてなのか。自分のどこを変えるべきなのか。それを振り返って、修正作業をする必要があります。

 
2.抑圧した思いに憑依される

 その時に、一番必要なのは潔(いさぎよ)さだと思います。これは自分だ、確かに自分はこれをした、そしてそれは人を傷つけたり、自分を堕落させる行為や思いだったと認めることです。そういうことをした自分を、それも自分だと受け入れることです。

私はこれは勇気がいることだと思います。それは自分の罪を潔く認め、これが私ですと告白して認める勇気です。潔く認めることができないと、その思いが潜在意識に抑圧されてしまうために、意識によって統御できなくなるのです。

 たとえば不倫をしてしまった場合、その奥に激しい性欲があり渇愛があることを潔く認めれば、それの修正が可能ですし、欲望のコントロールも可能です。でも一切認めない場合は、修正もコントロールもできなくなります。無いものは修正もコントロールもできないからです。

ところが、意識で否定したといっても、欲望のエネルギーが潜在意識に押し込まれて溜まってくるので、ある瞬間にそのエネルギーが意識に躍り出て、意識がそれに憑依されるという現象が起きます。自分には存在しないと言い聞かせて自己否定してきた欲望のエネルギーですから、意識では統御不可能です。結局それに憑依されたかのようになり、その欲望に支配されてゆくのです。

(次回に続く・種村)

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2014年1月17日金曜日

命の炎を燃やせ①-傷を癒す(2)



傷を癒す(2)

(2)心の底にある力

(前回から続く)

 結局私たちは、そういう経験をした自分を、自分自身が受け容れることができたときに癒されるのではないでしょうか。人に受け入れてもらう経験は、自己受容するための大きなきっかけになります。しかし、いくら人が裁かずに受け容れて理解してくれても、自分が自分を受け入れ、自分を許せないことには、癒されないと思います。それが癒しの鍵だと思うのです。

 では、自己受容はいかにして可能となるのでしょうか。それは、この世で生きてもがき苦しんでいる自分の心を、ありのままに見つめ、今ここが自分自身のスタート地点である、ここから出発するのだと受け入れることではないでしょうか。ありのままの自分を受けいれるとは、いまの自分自身をよく観察し、感じ取って、自分が、ここから出発しようとしているというスタート地点をまず受け容れることではないでしょうか。

 その時に、表面の自我意識だけでは、それをなしきれないことを私は知っています。もっと深いところにある意識、自我ではなく自己と言われる中心的な意識に触れてこそ、それをなし得ると思うのです。内側から癒す力が湧いてくるのです。自我ではなく自己に触れるときに、自分を癒し刷新していくエネルギーが湧いてくるのではないでしょうか。

 私は、その典型を哲学者の西田幾多郎氏の和歌に見ることができると思います。西田幾多郎氏は、大学入学寸前の長男を腹膜炎で亡くし、脳溢血に倒れた最愛の妻を看病の甲斐なくその五年後に亡くし、同時に病弱な三人の適齢期の娘を抱えて、孤独の中、悲哀の人生を送った時期がありました。この時に詠まれた西田幾多郎の和歌は、苦しみの深さを切々と伝えています。

 運命の鐵(てつ)の鎖につながれてふみにじられて立つすべもなし

 しみじみと此の人生を厭いけり今日此の頃の冬の日のごと

 かくして生くべきものかこれの世に五年こなた安き日もなし

 ところが、こうした悲しみ苦悩のさなかにあって、西田幾多郎氏は、こんな歌も詠んでいるのです。

 わが心深き底ありよろこびも憂いの波もとどかじと思う

 これは西田氏が参禅のなかで心の深い底にある「自己」に触れていたからこそ到達しえた境地だと思います。

 私は、丹田呼吸法、そして瞑想によって自分を深く見つめてありのままの自分を受け入れていく営みが、こうした境地へと私たちをいざなってくれると思います。私たちの心の深いところには、自分の運命を受け入れ傷を癒してくれる不思議な力があると思います。それは私たちの魂の奥底に働いている、大いなる愛だと思います。その愛に触れるからこそ、癒され、再起する力を得られるのではないでしょうか。(種村)

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2014年1月15日水曜日

命の炎を燃やせ①-傷を癒す(1)


傷を癒す(1)

「命の炎を燃やせ」というタイトルで、10回にわたって私の思想を書いていきたいと思います。これは私自身が経験のなかからつかみ取った思想であり、人生を復活させる思想でもあります。心理学の修行の中でつかみ取ったものを、シリーズで書き記し、読者のお役に立ちたいと思います。

(1)受容される時

 心は人生の中で、大きな傷を受けることがあります。人に愛を裏切られて捨てられた時、人生の夢が打ち砕かれて方向を見失ったとき、正しいと信じて飛び込んだ宗教が間違いだったと気づいた時、レイプされた恐怖の経験等。それらの経験は、いずれも大きな心の傷が生まれます。

 それよりもさらに大きな傷は、他の生命を害してしまった時です。小さい頃、犬の赤ん坊を虐待して殺してしまった記憶や、嫉妬していた弟を水辺でおぼれ死なせてしまった記憶。自分が取り組んだ政治運動で多数の死傷者が出た経験。自分のアドバイスで人が結婚に失敗したり、就職に失敗して不幸になったと知った時の負い目。自分の不注意で子どもを死なせてしまった後悔。人を害したことによる心の傷は、自分自身が害されたときよりも、何倍も深いといえます。それは深い罪悪感をともない、自己処罰の願望が生まれます。

 こうした心の傷を、どうすれば癒すことができるのでしょうか。心の傷は、それを癒さないでいると、いつまでも傷口からは膿が出続け、痛みが治まらないものです。

 心の傷とは何なのでしょうか。それは愛を裏切り期待を裏切って自分を愛してくれる人を苦しめたことへの後悔であり、人を傷つけその人の苦しみを感じ取った時の苦しみであり、自分自身が打ちのめされ、みじめになることではないでしょうか。

 私はその心の傷を癒す方法は、自分の心の中にため込んで封印してしまわずに、誰かに話して聴いてもらい、その時の自分の感情を理解してもらい、そんな自分自身を受け入れてもらう体験だと思います。決して裁かずに、そこから離れて立ち上がり、その中から何かを学び取って成長することを信じて聞いてくれる人に出会うことだと思います。ありのままの自分を理解し、受け入れ、愛してくれる存在に出会うことだと思うのです。

 そういう存在に出会うことは、誰しも願っても得られないと思うかもしれません。しかし、意外と私たちは、家族や友人、はたまた心理カウンセラーやカトリックの司祭などに出会い、聴いてもらう時に、癒されているのではないでしょうか。私も自分自身の罪を、隠すことなく話して、かつ裁くことなく、成長を信じてくれた人に出会えた時に、自分自身が癒されて、再起できた経験があります。(次回に続く)
 

(投稿)心を清めるための心がけ

 
 日本神道の教えにならって、心を清らかにすることを心がけていますが、では心を清らかにするためには、どのようなことを心がければよろしいのでしょうか。
 ひたすら心を見つめ、心の平静を保つことではないかと最初に思いましたが、これでは日常生活は成り立ちません。山籠もりでもすれば話は別ですが・・・。

 そこで、どのようなことに心がけて日々を過ごせばいいか、ということを私の潜在意識の「老賢人」に聞いてみたところ、

「〇〇であれば幸せ、という思いをなくすこと。」

ということでした。
 要は、幸福の拠り所を、この世的な、もしくは物質的なものに求めるのをやめること。もしくは、外部的なものに求めるのをやめるということになります。たしかに、そうすればこの世的な事象に心を動かされずに、常に平静な心境を維持できるはずです。

 しかしながら、言うは易し、行うは難し・・・です。
 ただ、常日頃からこのことを心に留めておくことで、意識的に自らの心の動きを見つめることができます。客観的に自らの心を見つめることができるので、それだけでも心の平静を維持できることになると思います。そして気づいたら、物質的にとらわれない境地に達していた、ということもあるかもしれません。そうであるならば、先ほどの教訓はこのように言いかえることができるかもしれません。

 「〇〇であれば幸せ、という思いをなくそうと、日々自らの心をみつめていくこと。」

 本当の幸せは自らの内にある、という言葉をよく耳にします。それを頭で理解するのではなく、自らの心でつかむには、このような日々の修身が必要でしょう。世の偉人達も、この世的なものを超越した本当の価値を感じ取っていたのだろうと思います。
 私もこれらの偉人達には到底及びませんが、少しでもそのような境地に近づいていきたいと思います。 (大)

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2014年1月14日火曜日

(投稿)(良心について考える


悪の誘惑
 
レンタルビデオ店で借りてきたDVDをコピーできるフリーソフトがインターネットで簡単に入手できます。先日、不正コピーに対する規制を強める法律が施行されたことに対する不満を持ちましたが、やはり人の権利を侵害するような行為はいかがなものかという思いも、この法規制を機に持つようになりました。

DVDのコピーはこの法規制をきっかけに、なるべく控えるようになりました。だだ、簡単にコピーガードを解除して空DVDにコピーできることの誘惑は非常に強いものあり、このフリーソフトへの関心は持っておりました。そこで、どんな人達がこのソフトをつくっているのだろうと思って調べてみると、中国のソフト会社でした。

なぜ、自分がこの法規制に対して不満を持ったのか。人の権利を守る法律に対する不満というのは、自分にとってどういった意味を持つのか。それを考えて見たときに、自分の心の中に、知らず知らずのうちに忍び込んでいたものの危険性にハタと気付きました。

私達日本人は、中国で横行している不正コピーに非常に強い不満を持っています。自分達の権利が侵害されているからです。しかし、その不正コピーによって自分達が益するという立場に立ったときに、その行為は無意識にうちに正当化されてしまいます。そしてその権利者を自分達に相対する者として認識し、その人達の権利を考えることよりも、自分達が得る利益を優先する気持ちを持ってしまいます。自分がいかに倫理観を失っていたかを深く反省させられましたが、そうしたことをこのフリーソフトは教えてくれました。中国人達を責める気持ちはありますが、自分もそのような倫理観を欠如を持ちかねないということを深く肝に銘じました。
 
心の防波堤

 著作権を持ったものを入手もしくは賃貸するには、それなりの対価を払わなければなりません。それは当然の流れです。もし、こうしたものを無断で得ることができるのであれば、それは窃盗に近い行為となってしまいます。こうしたフリーソフトについては、それを作成した理由はどうあれ、まさしく窃盗行為に近いものがあるといえるのではないでしょうか。そして、それがフリーソフトで簡単に入手できるというのであれば、こうした犯罪行為を助長させる行為そのものであると言えると思います。
ただ、そうしたものが世間で認められている以上、こうしたソフトは法律では規制取り締まりできないものなのかもしれません。ですから、そうした倫理に関するモラルを守ろうとする人間の良心次第になってしまいます。

自分の欲求を満たすことよりも、他人の権利を認めることの大切さを優先する心。
社会秩序を守ることは、決して他から強制されるのではなく、一人一人の自主的な心がけ(良心)次第であることを自覚すること。
この二つが大切だとしみじみと思います。

 世の中には数々のワナが仕掛けれているように見えます。それは、とても甘いミツで誘惑し、その誘惑に取り憑かれたら最後、その甘いミツに含まれた毒によって次第に神経が麻痺し、心と体の自由がきかなくなり、ワナを仕掛けた者の餌食となってしまう・・・、そうした危険なワナが知らないうちに私達の周りに仕掛けられているということを自覚する必要があるのではないでしょうか。

それを峻別し避ける手段というのも、自分自身の良心に他ならないと感じます。
浅はかな欲求や、一時的な損得勘定にとらわれることなく、古い時代から受け継がれてきた偉大なる教えや倫理観、そして自らの良心に忠実に生きること。そうして自らの倫理観を高めることによって、自分自身の心を守っていくことが大切なことではないかと感じました。 (大)

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2014年1月11日土曜日

(投稿)「怒り」について・続



怒りの奥にある感情

怒りは「2次感情」であるといわれます。何かしらの感情がきっかけとなって、怒りという感情が湧いてくるということです。
 そのきっかけとなる感情というのは、不満であったり、不安であったり、あるいは恐怖心ということもあります。
 要するに、「怒り」という感情をコントロールするには、それのもとにある感情のコントロールが必要となるということです。
 ですから、「怒らないようにするにはどうすればよいか」ということで怒りの感情のみに焦点を合わせるのではなく、怒りの裏にある感情に注目することが、こうした問題を解決する手段となります。
 では、どうすればよろしいか。
 怒りは「自己防衛」の感情であるとも言われます。そうであるならば、その元にある感情も「自己防衛」から発生しているといえます。
「不安」の感情は、「恐怖心」から発生するものです。「恐怖心」こそが、「自己防衛」の感情そのものであるといえるでしょう。動物を観察するすればわかるとおり、動物たちは、「自己防衛」の塊そのものです。動物のみならず、人間についても、「自己防衛」から、「恐怖心」や「不安」を引き起こしているといえるといえます。
「不満」の感情についても、自分の存在を脅かされたことに対する「自己防衛」の働きによるものです。その「不満」がきっかけになって、「怒り」が発生するということは、容易にわかります。
 こうしてみると、「怒り」を引き起こす感情は、「自己防衛」的な感情が基にあるといえます。
それでは、「怒り」をなくしてしまうには、「自己防衛」をなくしてしまえばよいのか。という疑問に行き着きます。「怒り」が悪い感情であるならば、「自己防衛」は悪なのか?
自己防衛」という感情は、動物に特有に存在しているものです。ということは、この地球上に肉体を持って生まれることで、必然的に備わる本能といえます。当然、人間にも備わることになります。この世に「個」としての存在を得たとき、自分に与えられた「個」を維持するために、「自己防衛」本能というものがあるといえると思います。いわゆる「肉体的な感情」といえるでしょう。


二つの本能の間で

全く白紙の状態で、肉体を持って生まれた私達は、「本能」にしたがって生きることになります。基本的には、「本能」から出てくるところの「欲求」を主体とした生き方をします。そして、生きていく過程で、教育等を通じて学び、各人各様の生き方をしていきます。

 マズローの欲求段階説にあるとおり、人間の欲求には段階があります。欲求は本能がベースとなって成り立っているという考えに立つならば、人間の本能は、生まれる時に得た「自己防衛」本能によって、自己の欲求を満たしていくものと言えます

マズローの欲求段階説の最上階は「自己超越」の段階です。「自己超越」の段階を見る限り、いわゆる「自己防衛」本能とは無縁のものであることがわかります。自分は「個」として存在するのではなく、「全体を構成する一部」としての存在であることを自覚する段階、つまり「個」という意識を離れた段階であるといえると思います。「個」を離れることによって、自分を守ろうとする意識が希薄になり「自己防衛」本能からも解放されるのではないかと推測されます。自分を縛っていた鎖から解放され、自由な境地に達することができた、といえましょう。
 よって、マズローの欲求段階説は、動物的な本能に支配された境地から、本来人間が持っている本能へと昇華する過程での段階であるといえるのではないでしょうか。そう考えてみると、本来人間が持っている「人間的な本能」(動物的本能と対比するため、あえて「本能」と呼びます)が、この世に肉体として生まれる過程において、動物的な本能に覆われた状態となっている。それが、この世に生きる過程において、徐々に本来の「人間的な本能」が目覚めてくる。そして、肉体的本能」と本来ある「人間的な本能」が介在する中で生きているのが、この世に肉体を持った私達であるといえるでしょう。
 この世で生きていくには、「自己防衛」本能というのは必要であるのかもしれません。しかしながら、本来の「人間的な本能」に目覚め、本来ある「人間的な本能」に忠実に生きていくということが大切であり、過去の偉人の教えの使命も、そのためにあったといえるのではないでしょうか。
 これらのことを踏まえて、怒りを乗り越えるための考察を、さらに進めていきたいと思います。(大)

2014年1月10日金曜日

(投稿)「怒り」について



自分のモノサシで測っていた

私の長男は、とても「マイペース」です。
「マイペース」といっても、それは悪い意味での「マイペース」で、全く時間にルーズで、焦ることを知りません。
あまりにも「マイペース」なので、私は長男に対して大いに不満を持っています。そして、時折、その不満が怒りに変わり、爆発することもあります。

そこで、長男の深層潜在意識に、どうしてそんなに私をイラつかせるのか、と尋ねたところ、「あなたと、体内時間が違うから。感じる時間の流れ方がちがうからだよ。」と言われました。
私が時間がないと焦っていても、彼は「そんなことはない、十分に間に合う」と思っている。長男は、私はとても心配性で、いつもセカセカしていると思っている、とのこと。

私を指導してくれる老賢人(注:ユングが唱える元型の一つ)からも、「原因のほとんどは、あなたにある。」と、一言。

確かに、私は自分のモノサシで長男を測っていることに気付きました。私と彼とでは時間の流れが違うのか。時間は、誰にでも同じように与えられ、同じように流れている。当たり前のように思っていました。物理的に言えばそうなのでしょうが、心の世界では違うのか・・・。

少し冷静になってみると、なんとなく納得できました。


「怒り」を「正当化」していた自分

それともう一つ、大切なことに気付きました。
それは、自分の「怒り」を「正当化」していたこと。
「自分が不満を持つのは、長男に原因があるからだ。自分は『怒って当然』なのだ。彼が私を怒らせているからだ。あくまでも原因は彼にある。」・・・と。

「怒り」や「憎しみ」を正当化してしまう原因の一つとしては、これらの感情を自分が持つに到った原因は「相手にある」というふうに思ってしまうことにあります。
自分に原因があっても、それを見ずに、原因を相手に求めてしまうこと。

また、この長男の件での他に、もう一つ心当たりのあることがありました。
自分の前をゆっくりと走る車に遭遇すると、ものすごくイライラしてしまうことです。
自分としては、スイスイと快適に走りたいのに、これらの車が自分の行く手をふさぐ障害物のように見えて、クラクションを鳴らすまではいきませんが、結構な勢いで煽ったりすることも、しばしばでした。
こうしたことも、「相手との体内時間の流れが違う」ということでありましょう。自分を基準として相手をみていたということです。自分が「イライラ」する原因は相手にあると、自分の不満を「正当化」していたということになります。

とにかく、どんな理由があれ、「怒り」は良くないことです。
深く反省することになりました。
相手の体内時間を受け入れること。自分を基準として物事を測らないこと。
それは、自他を分け隔てることになります。
私達は自他一体であるということならば、自分の立場を離れ、相手の立場に立って理解するように努めること。
そうした努力がとても大切だと感じました。

長男の「マイペース」にイライラしたとき、彼の体内時間に意識を向けて、彼のペースに合わせてみる。
目の前にゆっくり走っている車に出会した時、相手の体内時間に意識を向け、相手のペースに合わせて走ってみる
とにかく、「怒り」を正当化することをやめてみる。

こうした努力をこれからも続けることを心に固く誓いました。(大)

(注:コメント)
この原稿は種村トランスパーソナル研究所の準カウンセラーである(大)氏による投稿です。原稿の最後に(大)とあるのは、彼の投稿であることを意味しております。(種村)

<連絡先>
種村トランスパーソナル研究所
所長兼心理カウンセラー 種村修
電話090-8051-8198
メールアドレス:tanemura1956@gmail.com

2014年1月7日火曜日

呼吸法について



   丹田呼吸法

呼吸法というのは、超越心理学(トランスパーソナル心理学)においては、基幹となるものです。心と体を整えるうえでの基礎だからです。

 呼吸で最も基本とするべきは丹田呼吸です。下腹部に腹圧を加えて丹田を動かしながら深い呼吸をするのが丹田呼吸です。釈尊が生涯実践された呼吸法であるアナパーナサチはこの丹田呼吸のことで、吐く息を長くし、吸う時には力を緩めて自然に息が入るに任せます。白隠禅師が禅病にかかり進退窮まった時に、師に教わって健康を回復し、その後の悟りを進めたのも、この呼吸法の実践をしたからです。

 丹田呼吸法というのは、体と心の健康の基礎になるものです。呼吸法には西洋と東洋で違いがありますが、呼吸法が心身の健康にとって重要であるというのは、西洋でも同じです。たとえば米国の代替医療の権威であるアンドルー・ワイル博士が自著の中で様々な健康法を紹介した後、「もしたった一つ健康法を選ぶなら、私は呼吸法をすすめる」と述べていることでもわかります。不思議なことに西欧の呼吸法では丹田呼吸法があまり説かれなかったのですが、近年は禅や上座部仏教などが米国にも広がり、マインドフルネス瞑想法という名前で禅的もしくは仏教的な瞑想法が普及し、そこでは丹田呼吸が指導されているようです。

 

   丹田呼吸の身体への効用

 丹田呼吸の効用について、体と心の両面から説明したいと思います。

 丹田呼吸法をすると、まず下腹部から大量の血液が心臓へと送り込まれ、全身の血流が増大します。必然的に脳の血流も増加するため、頭の働きがさえてきます。また全身の血行が良くなるので、全身の細胞に新鮮な血液が多く運ばれ、新陳代謝が高まります。座って生活する現代人は、血流が滞りがちで、全身の細胞が弱まり高血圧にもなりやすいのですが、それが解消できるので血圧は安定します。また体温も上昇しますので、冷え性の対策にもなります。

 第二に丹田呼吸を繰り返すと、横隔膜が肺の空気を大量に押し出し、その分新鮮な空気が肺に取り込まれるため、新鮮な酸素が大量に肺に補給されるのです。その結果、血液に膨大な酸素が取り込まれて、全身に送られます。すると全身の細胞は二酸化炭素を排出し酸素を取り込みます。癌は血流が滞ったり、血中に酸素が欠乏すると起きやすいことが知られていますので、丹田呼吸を実践すると癌予防にもなるわけです。

 新鮮な酸素をふくんだ血流が全身を巡ることで、全身の細胞が生き生きとし、また脳が活発に働き出す。これが丹田呼吸で健康が増進する理由です。

 

   丹田呼吸の心への効用

 次に丹田呼吸が心の面に及ぼす影響を述べます。丹田呼吸は呼気を長く時間をかけて行い、吸気を短く行います。吐く息(呼気)が吸う息(吸気)よりも長くなると、副交感神経が優位の状態に自動的に切り替わります。副交感神経が優位の状態とは、リラックスした状態になるということです。この状態が続くと、表面意識の働きが抑制され潜在意識との交流ができやすくなります。ベーター波からアルファー波、さらにはシーター波へと切り替わるのです。瞑想で呼吸法が重視されるのは、この作用があるからです。

 また丹田呼吸法を続けると、脳内物質としてセレトニンが分泌されることが知られています。セレトニンとは心を安定させ、平安な気持ちにさせる働きを持つ物質です。ストレスを軽減するには不可欠の脳内物質です。つまり丹田呼吸法には、心を平静に安定させ、ストレスを軽減する効果があるのです。

 さらに集中力が増大します。これは脳内の血流が増大していることとも関係すると思われますが、精神集中力が増すので、智慧を得たり、仕事の能率を上げるには、非常に大きな効果があるのです。

 丹田呼吸法は、それがすすんでアナパーナサチと呼ばれる呼吸法になると、心の雑念が止まり、物事を深く観察できるようになり、智慧の目を開きます。潜在意識との交流が伴うので、深い智慧が湧いてくるようになるのです。

 近代日本にこの呼吸法を本格的に実践し普及させたのは、社団法人調和道協会会長の藤田霊斎氏ですが、それを引き継いだ村木弘昌医学博士が『釈尊の呼吸法』『白隠の丹田呼吸法』などの良書を著して啓蒙されています。医療や教育界でも、当代一流の人により丹田呼吸法が紹介され効果を上げています。私は心理療法には丹田呼吸は欠かせないと思いますが、そうしたものと無縁の人でも、心身の健康増進に丹田呼吸法を実践されることをお勧めします。(種村)

関連記事・心身を健康にする呼吸法の勧め

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2014年1月5日日曜日

(投稿)「怒り」と「憎しみ」について



前回、「至高体験」について述べました。マズローの欲求段階でいう「自己超越」の段階です。
この境地に到ると、「怒り」や「憎しみ」とは全く無縁となります
自他は一体であるという感覚をつかむことができるからです。
そして、「幸福感」と「感謝」に満たされるからです。
そこに「怒り」や「憎しみ」が入り込む余地は全くありません。

逆に、「怒り」や「憎しみ」から離れないと、「自己超越」の境地に到ることはできません。
そうしてみると、これらの破壊感情は、「自他を分け隔てた」境地の中で生まれるといえます。

また、これらの破壊感情を持つことで、さらに自他を分け隔てることになります。

この自他を分け隔てる感情は、「自我」とも言われます。
ウェン・ダイアー博士は、これを「エゴ」と呼びました。

要するに、「怒り」や「憎しみ」は、「自我」から生まれ、「自我」を増幅させる方向に自らの心を向かわせます。他のマイナス感情も同様であろうかと思います。
これらの感情を持つことに罪悪感を感じるならまだ救いはありますが、これらの感情を持つことを「正当化」してしまうと、大変危険な方向に自らの心を向かわせることになります。
まさしく、「悪魔の誘惑」といっても過言ではないでしょう。

「悪魔の誘惑」というのは、人々の「欲望を誘う」ということが代表的なものですが、この「怒りと憎しみを誘う」ことにも注意をしなくてはいけないと思います。
とくに「正義感」や「自尊心」などに訴えてくることがあるので、十分な見極めが必要です。

私達は「愛」と「調和」が、「怒り」や「憎しみ」よりも、はるかに価値があることを知っています。
自らの心境を高めるには、何を捨て、何を選ばなければならないかがわかるはずです。
自らの存在のみならず、他者の存在も尊重することの大切さ。
自分のみを益するのではなく、他者との調和を大切にしていくことの大切さ。
「愛する」気持ちをもったときに生まれる幸福感。
多くの人の役に立ったときに生まれる心の満足感と喜び。
心を静めて、自らの内を深く見つめてみれば、必ず透明感あふれる清らかな源泉を見つけることが出来るはずです。

その源泉、つまり本来の自分にたどり着いたとき、自己を超えた存在を感じることができるはずです。

小さな「自我」を乗り越えて、本来の自己に出会うため、そうした大いなる価値を持った自己に出会うために、どうか「悪魔の誘惑」には負けない勇気を持っていきたいと思います。
そのような気持ちを分かち合える人々が増えていくことを強く願っています。 (大)
 

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