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感情を調べる⑥・・・罪悪感

罪悪感について考えてみたいと思います。
自分が誰かを傷つけたと思ったとき、私たちは罪悪感を感じます。
犯してはいけない何らかの戒律を持っていると、それに反した時、罪悪感を感じます。
子育て中のお母さんであれば、子供を叱りすぎて、あとでひどく落ち込み、深い罪悪感を感じる人は少なくありません。

私は人間に与えられている感情は、どんな感情であれ、生きていく上で必要な機能を持っているものだと思います。
罪悪感も、行き過ぎた行動に対するブレーキの役目を果たしていると思います。
その限りでは、罪悪感の役割は大切であり、このブレーキがないと人は犯罪や社会ルールを犯して平気になってしまい、ついには社会的な生活が成り立たなくなると思います。

しかし、罪悪感をずっと持ち続け自分を罰し続けるという心理は、やはり克服すべきだと思います。
「自分は今、ブレーキを踏むべきだ」ということを教える一種のサインとしての罪悪感は受け入れますが、罪悪感で自分を責めさいなむ心理状態に陥ることは、問題です。
これは勇気をもって乗り越えるべきであると思います。
なぜなら、罪悪感は自己否定へとつながっていくからです。
罪を犯した悪い私、誰かを傷つけた悪い自分、子どもを叱りすぎる悪い親、そういう自己否定は、ネガティブな自己像を固定化させ、健全な心の成長を損なうからです。

罪悪感に伴う自己否定は、本当の問題を理解することの妨げにもなります。
何が本当の問題なのかは、じっくり心を見つめないとわかりません。
例えば子供を叱りすぎた母親の場合、自分が幼少期に親から叱られて恐ろしかった記憶が心の傷となっており、その恐怖心が怒りに加わって制御できないような激しい怒りになっていることがあります。この場合、過去の恐怖心に憑りつかれた状態が終わると、どっと落ち込み、自分をは駄目な親だと自責の念にかられます。
この怒りのからくりは「感情を調べる⑤・・・恐怖心と怒り」に取り上げました。 http://tanemura2013.blogspot.jp/2017/06/blog-post_7.html

子供を叱りすぎる時、コミュニケーションの方法に問題がある場合もあります。
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感情を調べる⑤怒りと恐怖心

怒り恐怖心は、しばしば密接なつながりを持ちます。
まずよくあるのは怒りの奥に恐怖心がある場合です。
人も動物も、恐怖を感じたときに、怒りを発します。
怒り、攻撃の姿勢を示すことで、自分や家族を守ろうとします。
恐怖心が根底にあると、怒りは制御できないものとなりやすくなります。
怖いので過剰防衛するために、過剰攻撃をしやすくなり、攻撃し過ぎてしまうからです。
ですから、怒りを見つめる時、その奥に潜んでいる恐怖心を見つめることは、怒りを理性的にコントロールするうえで大変重要になります。

もう一つの怒りと恐怖心の関わりとして、怒りに恐怖心が乗っかってくる場合もあります。
この典型的なケースは、子供時代に親に怒られて嫌な思いをしたにもかかわらず、親になって子供に同じように怒りをぶつけているということです。
子供のわがままな行動を見て怒るのですが、単にそれだけなら極端な怒りにはなりません。
子どもへの怒りが統御できにくいほど膨らむときは、子供時代に味わった親への恐怖心がその怒りに乗っかっていることが多いのです。
子どもを育てていると、同じ年齢の自分の子供時代の気持ちが思い出しやすいことが知られています。したがって、子供時代に親への恐怖心を体験し、心に刻んでいると、子育ての過程で割と簡単にその時代の記憶とつながります。
恐怖心が加わって膨らんだ怒りは、非常に激しいものとなるので、子どもに言い過ぎたり体罰をしてしまったりします。恐怖心が去ったと、我に返って、子どもにここまで怒ってしまった自分に自己嫌悪を感じ、ひどく落ち込みます。
このようなときには、怒りの奥にある、自分の幼い時期の感情、特に恐怖心を思い出し、それが今の怒りと結合していることを自覚することが大切です。
自覚できれば、恐怖心に無意識に振り回されることを制御できるようになります。

自分を見つめることは、自分の心を統御するためには、とても大切なのです。<

共時性と御神籤(おみくじ)

共時性という言葉は、不思議な導きとか、不思議な偶然の一致とか、なにがしか目に見えない、通常の物理法則を超えた働きを感じ取った時に使う言葉のように思います。物理的な因果関係はないはずなのに意味のある因果関係をそこに感じ取るとき、その現象を説明する言葉として「共時性」という言葉を使います。
そこで大切なのは、「意味」を感じ取るということです。

先日、東京の愛宕神社へお参りさせていただきました。男坂(出世坂)と呼ばれる急こう配の石段を登ってお参りし、個人的な願望を祈らず、ただ感謝しました。そのあとでお導きをお願いして心を澄ませていると、おみくじ(御神籤)を引いたほうがいいという気がしたのです。

引いた御神籤の裏側を見ると、「神の教」という中に、こう書かれていました。

「天地一ぱいに広がる力、神とひとつになった時
肉体に制約する人間の力は、誠にか弱い小さいものであるが、神様に通じ、神様と一つになりきれば、果てもなく強く大きくなって行く。さればひたむきに神様をあおぎとうとび、神様を信じ敬い神様と御一体になるまで拝みつづけ念じつづけましょう。」

非常に深い内容で、心で噛みしめたいと思いました。そして表側をみると「小吉」で、こう書かれていました。

「闇(くら)くて見えない道も月がさし初め、明るくなる如く幸福次第に加わる運ですから、あせらずさわがず静かに身を守って進むべき時に進んで何事も成就すべし」

つまりは、今の自分の運勢は夜ではあるが、晴れ渡る月の光に、うれしくありがたいことに進むべき道がはっきりと照らされているので、感謝してしっかりと進めという内容でした。

中心となる社殿での祈りの後、いくつかの摂社に参拝しました。
摂社には、お稲荷様や恵比寿・大国さまが祭られていたので、この世的な家庭の繫栄ということをお願いしました。すると、もう一度おみくじを引くべきだという思いが湧いたので、実は期待して引きました。

今度の御神籤の「神の教」にはこうありました。

感情を調べる④・・・大地への思い

街路を歩き40分もすると、広大な森の公園に出会います。
広い道の左右にはうっそうとした森が広がっており、急に空気が変わります。
太陽光や紫外線が木の葉にさえぎられてまぶしさが和らぎ、涼しい風が肌を吹き抜けるのです。
何かとても心身がリラックスして、ゆったりと心が広がっていくのを感じます。

さらに森の入り口を抜けると、管理された自然公園が広がり、カメラを胸に下げて自然観察を楽しむ人やウォーキングに励む人々の穏やかな姿が目に入ります。

私の内側に意識を向けると、いつもの自分とは違うのがわかります。
身構えた防御の構えがなくなり、心が開放されてリラックスしているのです。
心がやや固い閉じた状態から、柔らかい開いた状態に変化しています。

森の恵み、木々の恵み、水の恵み、大地の恵みを感じずにはいられません。
普段ほとんど意識しない大地の恵みに思いが向かうと、自然と感謝の気持ちがこみあげてきます。
大地、地球、そしてそれを照らしている太陽と、自分を取り巻く環境に目がいき、私が生かされ支えられていることがしみじみと感じられ、あり難いなという思いがごく自然に湧いてきます。

森から離れて街路を歩くと、なだらかな起伏があります。
この辺りは大昔は広大な森や山だったのだろうかと、いにしえに思いをはせると、大地が家を支え、道路を支え、私を支えてくれることが、とてもあり難いことに感じられてきます。
普段大地への感謝をほとんど意識することなく生きているので、こういう感覚はとても新鮮です。

歩いていると甘い香りが匂ってきます。バラの花の香りでしょうか。

感情を調べる③・・・花に惹かれる心

自分で一鉢だけのバラを育て出してから3年目になるのですが、今までは、何とか枯れないで毎年白く小さな花を咲かせてくれるのを見て、ほっとして喜んでいました。
それが今年、変化したのです。
家の引っ越しがきっかけですが、ベランダが少し広くなったので、何か欲しくなり、もう一鉢別の種類のバラをこの春に買いました。バラをもっと育ててみたいと思い始めたのです。

それとともに、街を歩いた時に、やたらとバラの花に目がいくようになりました。
さまざまな種類のバラが、5月には咲き乱れます。私は5月生まれなのですが、いままでバラに関心がなかったので、5月がバラの花の季節だったことに、今年まで気が付きませんでした。
しかし、関心が出てくると、いろんな家に植えられているバラの花に目がいって、こんなにもバラを植えている家が多かったのかと、びっくりしました。そして目と鼻で、さまざまなバラを楽しませていただき、とても感謝して街を歩くようになったのです。

他にも今年は発見がありました。その一つは、木に咲く花に惹かれている自分がいることに、初めて気づいたことです。

最初は桜でした。今住んでいる場所には、あまり桜の樹がないのです。
以前住んでいた我孫子の手賀沼べりには、桜並木が住まいの目の前にあり、部屋の窓から毎年桜が見えました。
しかし、引っ越してから周囲に桜がほとんどないため、桜を見れないことがこんなに心に飢餓感を感じるものかと、驚きを感じたのです。桜を恋しく思い、いろいろ街を歩き回っていて、ようやく川沿いの桜並木を発見したときは、並木道を歩きながら、すごく満たされるのを感じました。

私は日本人だなと、しみじみと感じたのはこの時です。
日本人の文化的な遺伝子が自分にも入っていて、桜を見ないとストレスになるのだろうと思いました。
「しき嶋のやまと心を人問わば 朝日に匂う山桜花」
本居宣長の和歌が、脳裏によみがえりました。また西行法師が春になるたびに吉野桜を見に行った故事も思い出しました。

桜が散る頃、別の白い花が目につきました。ハナミヅキです。近くにはハナミズキの並木道があり、堪能しました。何かすごく満たされるのです。

昔でしたら、パンジーなど草花に関心がいっていたのですが、今年はそちらの草になる花にはあまり気持ちが向かわず、ひたすら木に咲くに目がいき、それを美しいと感じ、見ているとうれしくなって満たされるのです。
そういう感情を見…

感情を調べる②・・・抵抗

自分の感情を調べる時に問題になるのは、感情に向き合うことへの「抵抗」が生じることです。
特に、トラウマのような深い深刻な感情であればあるほど、抵抗は強くなります。
極度の恐怖心、強い不安、真っ黒な絶望・・・、そういうネガティブな感情が湧き起きたとき、この世で生きている自分の心<自我=顕在意識>を守るために、それを感じることを無意識に拒絶することがよく起きます。そして、その感情を、潜在意識に押し込め、抑圧し、封印するのです。

その感情を思い出して向き合い、味わい、吐き出し、心を浄化したいのですが、やはりそれに触れるのは怖いです。それは半端な怖さではありません。

だから、「抵抗」が生じて、自分に向き合おうとしても、気をそらしたくなり、テレビを見たり、家事をしたり、仕事のことが気になって作業をしたり、あるいは酒を飲んで寝てしまいます。
逃げていることは分かっています。しかし、逃げていると知っても、どうしようもなく怖いので、目をそらすのです。
こういう時に、自分一人では向き合うのは無理だと感じます。一人ではどうしても逃げてしまい、感情を補足できません。
そういう時に、本音で心の話ができ信頼できる家族や友人がいると、その人に話し、その人から自分への意見などを聞きながら対話していると、何とか気づきを得ることができたりします。
そういう人がいなければ、カウンセラーが必要になります。
しかし、カウンセリングが進む中で、抑圧している感情に向き合うことが不可欠になると、まるでカウンセラーに無理やりさせられているような気持ちを持つことが起きます。
その時の心理は、自分が被害者になっており、カウンセラーが加害者そのものです。「カウンセラーに無理やりいやな記憶を思い出さされて、強制された」という被害者意識が湧いてくるのです。これは「抵抗」です。
実際には、過去に加害者だった人への感情が、カウンセラーに対して向けられているのですが、それに気づきません。これが「投影」と言われている現象です。
投影とは、実は自分が過去において加害者に抱いていた感情を、カウンセラーなど第三者に対して感じることです。これは自分の潜在意識にある感情を、カウンセラーという鏡に映しているのです。本当は投影しているにもかかわらず、現在ただいまのカウンセラーが加害者そのものであると感じられます。
この状態では、カウンセラーへの攻撃が生じるので、そのま…